Disturbing night

ここでは時事ネタには触れたくないんだけど、長年のホラーファンとして一言書かせてください。すんません、エンターテイメントはそれだけを楽しみたいって人に面白がれるものは何も無いよ!わたしの愚痴だからね!

 

 

考えつつ書いたので論理がねじれてるとこと、あと記述すべきところに慨嘆が挟まってるようなのがいっぱいあるんだけど。

いや、勿論今回の事件はホラーが糾弾されてるわけではないんですけど。

 

ただね、90年代以降*1のホラーバッシングを目の当たりにしてきた人間として、そしてヘンタイのひとりとして。

あとtwttrで今回の主張と逆に思われそうなこと書いちゃったことあるし。

 

今回の事件の理解:どこぞのロリコンエロキチが犯罪の手口の参考書としてエロ漫画をあげた。そのため警察が当該漫画の作者に注意喚起を申入れ。今後も同じことを行うと発表。

 

…私の内心を一言で言えば、寝言は寝て言え無能警察内輪の容疑者ちゃんと始末できる組織つくってからふつーに検挙上げろ、ってだけなんですけど。

その周辺部分に関して。 

 

もそっとだけ丹念に書くと、個別の事件において実行犯人の判断を飛び越えて創作者の責を問うのは本当に妥当ではない。今回の警察の行動は市民と公権力の関係において決して許してはいけない判断だった。

ただそれでも、もう我々は「芸術無罪」を叫んで創作物を現実から棚上げして自分たち享受者の加害行為に眼を瞑ってられない時期に来てるよ、と思ってます。

 

公権力が市民の内心にまで踏み込むって、やはりどう考えても異常なんですよ。ありうべからざること、という意味で。司法は「成した」行為についてその成否を明文化された法のもとに問い、罪があれば相応の罰則を科す、というのが本義なんですから。裁判においては情状酌量のために内情を斟酌することがあるけれども、それは対象の犯罪行為から被告人という個人に視点が移動した後のこと。少なくとも容疑者の段階ではその行為を成しえた主体か否かしか注目する必要はないはずだし、警察の視点はそれ以外の点を問うてはならない。

「内心」にしても―行為の「動機」を明確にすることは犯罪の自覚があったか否かを問うために必要だけれどもー内心に犯罪の企図があったとしても、それが実行されるまでは絶対に裁きの対象にはならない*2わけですよ。本当は。まして、その内心の起因までもには当然責任を求められない。

これ全部、法の下に定められてることだし、逆にこの点を揺るがすることは他のすべての罪の規定にも影響を与える。

内心に踏み込む、というのはこの場合、漫画家の側にその表現を萎縮するような働きかけを行うこと。で、今回警察のやった「内心のインフルエンサーにイチャモンつける」ってのは、とんでもない逸脱行為ではないか、と。

 

・イチャモンてのは言い過ぎだろう。単なる協力要請では。

 警察に家まで調べて押しかけられて、それを言える人間はどれほどいるのか。少なくとも、私は「国家機関によって『有害』の太鼓判を捺された」ら類似する作品をつくることに大きな抵抗を感じるようになる。あと今回「また似たようなことがあれば行くかも」って明言してますからね。

 

・所謂「赤線」みたいに「有害だけれど許容する範囲を明確にしている」状態への回帰じゃね?そうやって仁義きってくれるならエロ漫画家みたいな旧来アングラでしか生きてこれなかった人種も、グレーゾーンではなく堂々と社会に共存できるんじゃ?

 上述の通り、警察の今回の申入れは法の規定の外にあるものです。言い換えればその警察の行動をモニタしてどこまでならOK/Noを線引きする規定がない。つまり任意協力である限り何をお願いしても可なわけですよ警察さんは。公権力が「彼は有害なインフルエンサー」と繰り返し(公費使って)宣言する/本人に念押しすることって、それもう圧力と何が違うの?

 

 

ホラーバッシングについて

社会にとって"有害"とされたものは必ずバッシングを受けます。(と同時に、それを強く希求する少数がいることも間違いないんです。)

その"有害"さだって多面的で、ただひとつ言えることは、それは大多数の価値観と合わない、というその一点なんです。だからそれに救われる人間だっている。

ミクロな話をします。

服部ミツカさんというエロ漫画家がいて、彼女は「欝漫画」やホラー、家族間・"普通の"男女間愛で幸福を迎える以外の結末を迎える創作物に救われたと何度となく書いています。若い頃、ステレオタイプハッピーエンドに馴染めない自分にはそういう作品が休息になった、と(ものすごいうろ覚えでスイマセン)。*3

大多数にとって有害なものは、それが誰かを脅かすものもあるし、しかし単にその大多数のスタンダードに沿わないだけのものかもしれない。LGBTポルノ(≠腐向けや男性向け)が発禁処分を受けた例もあり『悪魔の詩』事件もあり。

要は"有害"とされるもの・それを表出する自由も、そういうスタンダード外にいる人間のために確保されていなければならない。今日の有害は10年後のマイナー趣味かもしれない。隠れている誰かにとってのわずかな息抜きの場かもしれない。

 

加えて”有害”バッシングは必ずしも的を射たものでもないと思ってます。

そのバッシングは、絶対に標的にしやすい、マイノリティ・権威的ではないものを狙います。その狙いが、バッシングによる抑制効果よりもバッシング自体の盛り上げやすさによって定まることがないとはいえません。実際、マジョリティであるタバコ文化は、00年代までバッシングのない世界を歩んで来ました。

90年代、いくつかのTVドラマが少年犯罪のインフルエンサーだと糾弾されました。ある事件では犯人のホラービデオコレクションが取沙汰され、猟奇事件のたびに犯人のホラー趣味が開陳され。他方で、ニュースキャスターは「毒殺は証拠が残りにくく砒素は入手も容易」とニュース内で述べていて。おいそれまさに毒殺教唆じゃないかよ。

まあこれは報道主体とバッシング主体(というか扇動者)がほぼ一致していた前SNS時代の話なので、現在に比べるには構図が単純すぎるとはいえるのですけども。

 

繰り返しになるけども、全ての法は"理性ある人格"をその思想の土台につくられているし、その原理でもって、責任能力のないところに責任は成立しないとされている。具体的にいうと、人間は法律で禁じられた事を行うにあたってはそれを「破る」ことに自覚を持っているか、既遂においては必ず判断があったと(逆に過失の場合は、あって当然の判断の欠如を問われるけど)される。加害においては加害対象のない加害行為は存在しない。

この原理でいけば、どんだけ示唆にとんだ殺人描写であっても、それを読んで殺人を犯した人間以外にその責任は問えない【その一事件に注目した場合】んです。 内心のその欲望の誘引描写や実行方法の記憶があったにしても、そのうえで実行の意思を固めたのは行為者ただ一人、それ以外にその犯罪の責任者はいません。【事件の増加などの時勢や傾向に注目した場合】殺人の描写の頻度や残虐度があって、実際に犯罪の増加傾向があるか否か、その増加が(殺人等の)表現に起因するものかの検証はされていないことが多いという問題も有ります。つまり印象論に過ぎない、と。法という明確な基準に拠らずに糾弾できるものを糾弾しようとするときに、本来因果で括れない二つの事象を結びつけることは、ままあることです。

逆に、そのインフルエンサーを罪に問う…まではしなくても責任があるとするのならば、犯罪の起点を行為者以外にするということ、判断・責任能力のない人間にも罪を問うということ。それをやるのならば、今まで刑事責任能力の欠如で罪科を免れてた人間も未成年も全部訴追しなければならない。つまり根本的に法の意義(全ての市民のため)を変更しなければならないし、局所的には刑事罰の特性を更生から厳罰・報復に転向しなければならない(しなければ道理が通らない)のです。

 

まぁものすごく乱暴に括ると、どんなクッッッソみたいな創作でも、それが創作に留まっている限り、あるいは明文化された法に違反しているのでない限り、その存在を否定してはならないし、ましてその作者の倫理の問題にしてはならないと思ってます、というだけのことです。

 

 

あと実効性がないんですよ、表現を規制しようっていう提言には。

 

「非実在青少年」のときも思ったけど、どうやって全ての創作物をチェックして取り締まるんですか。輸入作物みたいにランダムに審査入れるのか?印刷や配信過程で自動認識のスクリプト入れるのか?前者は農作物みたいに全体に対して悪いものの比率がわかってるとか一定の水準が保たれてると検証済みのものにしか使えない手法だし、後者はすぐに「引っかからないロリ(なり残酷描写なり)」記号が開発されてイタチごっこになる。。。萌え絵なんてものすごく高度な記号の集大成だぞ。もともとそれを読み解くリテラシーをもった人間しか内容を読み取れないほどに。あとどっちにしても成文法の下の平等という原則には反するし、生き延びた作品が悪いインフルエンサーになったら意味がないでしょう。

そもそもコストパフォーマンス悪すぎるという問題もあって。人海戦術で行くしかないそんな手法。それやるくらいなら同じ労力で実写ポルノ取り締まるほうが、議論の余地が小さい分と実際「今そこにいる」被害者の救済につながるという点で、絶対に得るもの(尊厳への侵犯の停止と同じ行為の反復防止効果)が大きいはず。

 

 

ただ、ただね、作者自身がその"有害"性/マイナーさに無自覚なのはいただけないと思うよ。これ強調して言っておくけど*4。

そして矛盾した言い方だけど、表現を規制してはならないけど、その表現に対して否を唱えることも止めてはならないと思う。むしろ決して成立しはしない対話をし続けていなければならない。

 

 

以前長文で語ったけど、創作物は個人の中にそれまでなかった欲望を惹起しうる。創作物のなかに描かれた価値観を内面化する。それはもう、間違いないことです。(今回の事件は欲望の誘引ではなく明確に犯罪の手口の模倣だったけども)

そしていまや、同人誌であろうとも他愛ないツイートであろうとも、「アングラだから」「個人の発信だから」でその影響を無視できないほどに流動的な社会になっています。

マイノリティはマイノリティだからと全てを見逃される存在ではなく、むしろマイノリティだからこそその一挙手一投足を監視されている≒その行為がメジャーな場に露出しやすいがために”一般”との比較が容易だし注目もされやすいのです。マイノリティ集団によってはその集団の中で意見を先鋭化させがち*5で、特に刺激こそが至上命題ともいえるエンターテイメントにおいては、いかに過激になるかを競い合っています。

勿論見ない人間はまったく見ないんだろうけれども。

でも、責任ではなく武装のひとつとして、その"有害"については何かあったときに抗弁できるものを持っておかなければ、危険でしょうがないのですよ。実際問題。どうやってバッシングに抵抗するのか?「これはエンターテイメントや創作に過ぎないものです」「これを実行する読者は判断能力が著しく低いだけです」

バッシング自体に妥当性はなくても、声が大きくなれば加害される可能性はいくらでもあるわけで。極論を言えば「正しさ」と「正しくなさ」の議論ではなく「叩かれる」だけだってダメージはあります。そのダメージは必要なものか?と。そうなる前に理論武装しとけよ、と。

 

そもそも、"有害"と一括りにしてきたけど、その中にも幾つかパターンがありまして。

 ①手法の教唆

 今回の事件とか、『完全自殺マニュアル』の反応とか。ただこれ、手法自体の教唆というより「ある媒体によってこの手法をとれば安全であることが示された」ことのほうが問題だと思うんですよね。

『完全~』は明らかに、"自殺ってロクなもんじゃない"という主張を前面に押し出していたし、手法の紹介は行っていても、実は細かい手順や確実に死ねる範囲なんかは暈してあったはずです(もう忘れてしまった)。どの紹介された自殺手段もコストや成功率等々の点で合理的ではない、という記述に終始していました。さらに、因果関係を結ぶことは難しいけれども、この本の発刊後2年間は自殺者(未成年・総数とも)減少(いや自殺の場合は集計方法が色々あるから一概に言えないってもの事実ではあるけども)。貴志『青い炎』にも「この完全犯罪必ず失敗するよ」って明記されていました。

そういう意味で、今回の事件―読んでないのに断言するのは非常に拙いのだが―は最初から最後まで「作り話」のスタンスを崩さずに成功体験として語られていたのではなかったか(推測)。そこがまずいでしょう。

「倫理・法的に許されざる行為でありその手法です」と作中(物語の枠内)でも注記でも示さずに、実行の判断は読者に委ねている、その点。予め予防線を張ってなかったのは、結果的に責められても仕方ない(≠合理的である、≒起こっておかしくない帰結)かもしれません。「反駁頑張って~但しその有害さを正当化するな」、ってなとこです。

書き添えると件の漫画は「犯罪したったぜヒャッハー」ではなく故なく被害者に陥った弱者の絶望を描くもの(らしい)から安直に成功体験とも呼べないんですけどね。

繰り返しますが、報復の面からも再発防止の点からも、真に糾弾されるべきは犯人それ以外にはいないのです。

 

 ①-2 残虐行為への慣れ

暴力を日常に侵入させること、エンターテイメントにおける"刺激"のひとつとして形式化すること。

前者は②とも地続きだけども。統計をとってなくてほんと言いづらいんだけど、00年代以降、ホラーというジャンルが衰退するのと同時に、他のジャンルでの残酷描写が激しさを増した。体感だけど。

  

こういう意味で、私は古いホラーと最近の加害描写のある漫画とは分けて考えたい…です。90年代ホラーは、勿論理不尽な暴力も描かれてはいたけれどその多くは狂気であり因果応報であり、少なくとも現実にそのまま適用可能な刺激とは描かれていなかったように思います。物語の世界でも、その残虐は成功体験ではなかったと。それが、物語のうえで安易な勧善懲悪というステレオタイプに乗った技量のなさに因るのだとしても、評価したい。

もっとも、80年代に始まるホラー・スプラッタブームが、結局は後のほかジャンルにおける残虐描写の興隆の端緒になったことは恐らく否めないのですけれども。それは当時の作家や愛好家たちに責がある、といいたいのではなく、何か違った在り方―ちゃんとレイティングせねば危険という共通認識を育てるとか、少数の愉しみだからと野放しにするのではなくマスにおける手綱のとり方をかんがえておくべきだtt―――いややっぱり刺激物の一形態として安易に一般紙に取り入れたマスのせいじゃねーかどう考えても

編集仕事しろ

 

 

 ②価値観の開発

 ロリコン万歳なエロ漫画とかミソジニー満載のBLEACHとか。。。

これめちゃめちゃ厄介。古い漫画だと「この漫画は今日の常識に照らしてみれば差別的~な表現を~」とかいう注記があるけども、今再生産されてるヘテロ恋愛至上主義とかロリ万歳には全く打つ手なしですよね。

欲望の喚起という点では、エンターテイメントほど深く人心に食い込んでいて有効なものも無いのに。*6しつこく言うけど、自己の欲望を言語化して明確に認識する、或いは提示された欲望を内面化することは全く自然な現象であり、他者の人生の追体験ともいうべきキャラ娯楽漫画はその最適化された手段といってもいいのです。

そして現在のエンターテイメントの"楽しみ方"にはそれらの欲望を発露し自己主張することも含まれていると忘れてはなりません。

「何を好きかが自己を構成する」という通り、好きなモノはアイデンティティの根幹だし、それを好きだと発言することがそれを堅固にします。だからひとは繰り返し自己の妄想やら嗜癖やらを喧伝する。加えて好きなモノを同じくする同志が集まってコミュニティを作り、そこにおいて思想を先鋭化させる。その過程で嗜好とその喧伝は正当化され、相互触発的にその過激さを増すし、顕在化された嗜好はそれに沿う新たな創作物を生む。

 

③価値観の提示と加害の混同

 痴漢はひとつのプレイだ気持ちよければ肯定されて然るべきだ、みたいな言説。ー現実を見ろと。被害者の存在を無視して加害行為が肯定される正当性が無い。けれども、価値観を持つこと自体ではなく、それが他と衝突したときにそれを優先してしまうそのことが問題なのです。

 ペドフィリアはひとつの嗜好に過ぎない、それはそうであるだけでその人格を否定されてはならない、と。―ペドってだけで殺されることは無い、が実在の事件や子供に言及してその加害を肯定する言葉を吐かなければ、それは加害として成立しえません。

まず、どちらも、嗜好自体を抱えて生きることは否定されるべきではありません。但しそのどちらもが実行すれば加害行為に他ならないことに眼を瞑って、その顕示を容認することは、倫理の点に照らして正当ではないのです。

繰り返しますが欲望の発露はその欲望の再生産をもたらします。かつ、こういう発言する集団*7と実際事件が起こったとき、その加害を肯定する発言をする層ってかなり重複して…ないですか…?寡聞ながら、この予想を肯定するような現象しか見たことないんですけど。一部の先鋭化した実行犯(下着ドロとか幼児盗撮とか)を肯定し規範意識の上で応援する(ピラミッドの下層を支える)盗撮画像や痴漢等フィクション享受層が厚く存在しています。

第二に、それらの言説が加害になることをあえて無視して表明し続けること。ロリコン犯罪事件において未成年側の責任を問う声、痴漢冤罪は女性の悪意によるものという糾弾。二次元のではない事件に関していながら、価値観だけは二次元のそれを現実に伸張してき、結果実際の加害行為になっている、という。

これらは歴とした二次加害です。それを誘引するのが、創作物のなかの「プレイ肯定」とそれを好む自己のアイデンティファイでしょう。

 

フィクションから離れるけども、価値観の多様性と加害の混同の極端な例。

一橋小平祭の百田講演会中止。それをして"百田の側の意見の封殺"と呼ぶ向きがあるが、ヘイトスピーチへの反対はリスク管理の問題だったに過ぎないと思う。

「多様な意見」は確たる証拠と明確な思考によって提示されなければならない。それを欠いた言説は単なる憎悪の扇動に他ならないわけだが、百田の講演がそれに見合うものか?実績は?根拠の無いデマと扇動だけじゃないか(この判断の根拠は、顛末を事実に反した憶測だけで語る彼自身によってむしろ補強されている)。そのスピーチと、それが呼び込む反「反日」層の敵愾心発露はマイノリティへの明確な攻撃といっていい。かつ、それを座視した一橋というブランドの毀損。それらのリスクを鑑みれば、中止は妥当な判断。

話を戻すけども、抱える価値観の「表明」は内心の自由では守りえないし、その表明が他者を害するものであるならばそれは留められねばならない。表明によって発言者が自由か何かを獲得する過程であるなら一考に値もするけど。例えばロリコンがその存在を認められたとしても何も獲得し得ない。その存在が認知されることで求めるロリが彼らの手に入るわけではなく、実在の未成年に危機感だけをもたらすから、その存在は抑圧すべきものとされる。むしろ沈黙を貫いているほうが妄想だけは好きに味わえる。それが内心に留まっている限りは。

だったら表明を静止するのが妥当だよね、と。

 

 

これらの要素から、娯楽作の"有害"性は確かに存在するし、それは実際の加害・犯罪行為に結びつかないかたちを探らなければならなくて。

(娯楽作の発表自体が加害である場合のその封じ込めの難しさ…というよりも不可能は先述の通り)

そのためには、少なくとも作者がその有害・異端であることに自覚的でいるしかないと思うのです。少なくとも規制以外の道では、その自覚を欠いてはどこにも進めません。作者だけが、欲望と欲望の結果を同じ紙面の上に書けるのですから。心地好さと正しさの両方を探し続けられるのです。

 

繰り返しになるけれども、個別の事件において実行犯人の判断を飛び越えて創作者の責を問うのは本当に正当性も妥当性も合理性もありません。それは絶対に言ってはならないことです。今回の警察の行動は市民と公権力の関係において決して許してはいけない判断でした。

 

だけど、「芸術無罪!」と無邪気に言ってられる場合じゃないんです。

本当は読者の側が批判して許容されてはいけないものをそれとして切り出すべきだと思いますよ。創作物は一義的じゃない、埋め込まれた価値観はダメでも他に見るべきところが沢山ある、なんて当たり前のことで、だから「すっげーエロくて嗜虐欲をそそられて素晴らしい作品だった!ありがとう!でも○○の倫理に照らして間違ってるからもっと違うかたちに仕上げてほしかった、その留保条件付でこの作品への愛を叫ぶ」ってのがアリになればと思ってます。今は、愛の単純化と先鋭化以外に読者に求められる振舞いってないからな。。。何でゼロサムやねん。ちゃんとした誉め方しろや。

 

・じゃあ、その「否」の声によって筆を折る作家がいることはどう考えてるんだよ

 

これな、自分も他愛ないツイート一つで今絶賛描けない期間中だから何も言えんわ!!!自分のは自作への批判じゃなく、吐き気を催すような意識を示されたからエンパワーメントが嫌になったという、まったく違う事例だけど。

いやでも、描くでしょ。多分。一旦筆折っただの何だの言っても。(自分がそうである)

あと真面目な話議論の訓練したほうがいいと思うんですよね。即効性は無いにしろ。先のゼロサムではない愛の表明方法をちゃんと探ろうぜ、と。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

*1にはスプラッタの流行とその影響についての言説は80年代を起点とするのが正しいらしいけど、そこは私にとって膚に触れるものではないのでちょっとスルーさせてほしいです。

 

*2勿論各種防止法は対象犯罪や禁止行為の実行前に、その計画やそれを生み出すシステムを留め、罰するものだけど、すくなくともそれを犯した構成要件に予備"行為"が含まれている。全く手付かずの計画段階で罪が成立することはない(※17.6.14現在共謀罪は未→施行)

 

*3但し服部ミツカさん(だけではなくオタク文化出身のエロ漫画クラスタ)には、サブカルをあまりに特殊視する傾向があって、その点でだいぶ批判点があるんですけどね。ここではミクロな例としてとてもわかりやすいのであげました。

 

*4ただ、作者が作品の有害性/社会的存在意義に意識をおきすぎてる作品って、主観では面白くないんだよなぁ。具体的には『おいしんぼ』はじめ美食漫画全般なんですけど。いやそんな読んでないけど、"美食の追及=文化の尊重""正しい食=人間活動の根幹""和食無敵"とか書いてあってその説教臭さに「うるせーばーかばーか!」って気分になる。。。

 

*5これ、どういう集団がそうなるのか/ならないのか、ちょっと纏めきれてないんだけども。 

 

*6そういう意味で私は「腐向け」という言葉は非常に妥当だと思ってる。Boy'sLoveでも女性向けでもなく、腐敗した思考の人間向け、という表現。空想のなかの、誰でもないキャラクタを自分が勝手に消費している、という明確な自分のための妄想だと明言しているところ。実際の男性の同性愛だと偽って(偽りでしょ?その主体の発言はそこには無い)自分の妄想をboyに仮託するでなく、妄想主体を女性と大きく括るでなく、自分のための消費傾向で類別するやり方。とてもフェアだと思う。

 

*7ひとつ自分のなかで象徴的な出来事を。文アルの赤旗騒動のときに似た構図を見た。

”小林多喜二”の名を冠しつつその現実での活動実績・生涯を全く無視してオタクの閉じた世界をつくっていながら、現実のほうからの歩み寄りを侵害として吹き上がったっていう。実のある現実の名前を消費しながら、現実の側からの言及を「土足で踏み込んで来た」と表現するメンタリティ。

アングラ・ サブカル・同人文化だと喧伝する人々に不信感を持ってるのはここ。

 

マイノリティで社会の片隅に仲間だけで固まって生息しているだけだ、と主張しているけれども、実際全然アンダーグラウンドじゃないよね?ゴアデッキ展だって氏賀Y太さんの諸々(どっちも大好きです)だって簡単にアクセスできるし、そこを入り口にしてその集団の観測を行うことって、簡単にできるよね?むしろ喧伝してるよね?(喧伝というか、商業であればマスに対して宣伝して不特定多数の潜在的購入者を探し出さなければいけないわけで、その時点でそのテーゼに反してる。そんな漫画制作者集団が「隠れて生きてます」っておかしくない?)

 

それに筒井康隆の騒動のときだって"反社会性は彼の作風、そういう文脈で捉えなければ"ってサブカル界隈では主張してたけど、その文脈を超えて進出している現状を無視して、ごくごく内輪のルールを適用させようとするのは妥当じゃない。ていうか無茶だ。「文脈を理解」しているか否かで外部と内部を線引きしていながら、外部をも内部ルールを以って断罪するのは無理すぎる。断罪は言い過ぎか、理解と容認を求めようとすること。

 

 

単に「特殊なものが好きな集団です」という主張ならいいんだけども、内部で先鋭化するそのダイナミクスを無視しつつ、表明という加害を行うことは容認し得ない。…と描くと「外の容認なんか要りません」と返ってくるんだけれど、容認や非容認の次元じゃないんだよ。二次加害(がいちばん一般的に発生する)という、降ってくる刃には被害者たちは抗うよ。

 

性被害にあった人間に「性被害を眺めることこそ至福、もっと起これ」って言ってきたら(言ってくるんじゃなく見えないところで囁きあうなら、被害は生まれない)、「ふざけんな黙ってろ」って抗弁するだろう。自分を救うために。被害者側は、嗜好者を否定してるんじゃなく、嗜好に託けた加害を否定している。それを混同している現状。アングラ…の人々に限らないけれど、余計なことをいう人間ほど声が大きい。(勿論”被害者”の側にたった扇動者もいる)

 

 

 

 

まあ共謀罪が成立したら、そういう描写のある漫画を「国家転覆の示唆行為だ」と訴追することもあるかもね。クソッタレ。(アンチ共謀罪)