<乱菊側>

 

後ろめたさを、あのこは持ってる。

それが常識からの逸脱に対するものなのか、身体に傷をつけるという常識への背信に対するものなのか、或いは馬鹿な行為をやめられない自分の意思に対するものなのか、あたしにはよくわからない。考えて分からなければ、それにこだわる意味はない。

七緒は、毎朝、よく見もせずに薬指にリングを嵌める。石もついていないそれを使い続けることが、ファッションで通用する訳ではないことぐらいわかっているだろうに。

それが薬指の小さな傷を隠すため、なんてことは先刻承知だ。その傷をつけたのはあたしなんだから。



ぐだぐだと、しょうもないことを喋り散らして夜を過ごすのはあたしたち姉妹の習慣だ。

この歳になってそんな風にじゃれあっているというのは、珍しいのかもしれない。大人になれば、互いには互いの生活があって、姉妹というのは自分を構成するたくさんのパーツのひとつになってしまう。その原則からいえば、一つ屋根の下に住む同性、という存在は、生活圏の重なりからいって少し近すぎるものだ。だから余計な摩擦を避けて極力距離をとるか、互いに一切の干渉を禁じて関わった部分だけを都度精算するか、依存や搾取とその救済という片務的な関係を結ぶか、或いは二人ともが子供のように自立を拒否し続けるか、そんなところだ。

けれど、あたしたちは違う。それはあたしたちが高徳だとか自律的だとか、そんな人格に寄るものでは決してなくて、ただ二人が赤の他人だからだ。

十四のとき、あたしは突然この家に迎え入れられて、容姿も性向も正反対の七緒を姉妹だといわれた。だからあたしたちの間には遠慮もあれば秘密もあるし、勿論、互いを理解するまでは相応の距離があった。けれど、相手が所詮赤の他人でけれど一ツ家に暮らしていかなきゃならない、という命題は生きるうえでの課題として目の前にぶら下がっていて、あたしはそれに相当頭を絞った。幸いにして、七緒はめんどくさいけれど愚鈍でも狡い人間ではなかったし、むしろこちらが知りたいといえば納得するまで会話をつなぐ律儀―――というかクソ真面目な人間だった。私達の間に奪い合うパイはなかったし、与えればそれ以上に何かを返そうとする幼女の姿はそれなりにあたしに感銘を与えた。

その目先の餌に捕らわれないで何かを追求する賢さだとか豊かさに根差した高潔さは、生きるのに汲々としていたあたしの周りには決してなかったもので、反発しながらもそれに憧れたのだ。

それが、あたしのやったこととどう結びつくのかと問われれば、正直なところ言葉に詰まる。作為はあった。足元を掬うつもりで、罠を張った。

飲みやすいカクテルを持ち込んだのはそれだ。別にそれであのこが酔うとも思ってなかったけれど。

七緒が酒を好きではないことは知っている。アルコールに浮かされた楽しい気分を共有出来たらいいのに、といつも少しだけ期待して裏切られる。

蛍光灯は明るく部屋を照らすくせにその陰は薄い。グラスの彩も弾ける泡の煌きも弱々しく、指紋ばかりぼんやりと薄汚く映る。しゅわしゅわと弾けるそれを手にして、気分が滅入る。

つまらない八つ当たりだったのかもしれない。或いは甘えとも。とにかくその夜あたしは誰かに許されたかったし、いや、誰かなんていう抽象的なものじゃなくて、あたしが選んだ人間に。つまり七緒だ。

 

そして水を向けた。あのこが好まない猥雑な話題を、かなり明け透けに口にした。付き合ってる男がどうとか自分はどう感じるかとか。それから七緒はどう思うか訊いた。似たようなことをすれば、大人数の席なら、やんわりと制止をかけてくるのが常だ。鉄拳制裁のときもあるけど。

我ながら悪趣味だと思う。自分の周りに茨の生垣をつくって、相手が何処まで歩み寄るかを計るなんて、馬鹿げた方法だ。己の歩み寄りを拒んだ愚かな人間の、傲慢な手段。

だけどその夜は違って、七緒はなぜか下ネタ混じりのジョークに眉尻を下げて、困ったように笑い続けた。

だから、少しだけ意地の悪い気分になった。

あの子が好まないと知っていて、そんな話題を口にした。許されている、という喜びはすぐに嗜虐心に変わる。

―――だってあのこは笑っていたもの。

 

七緒は、酔ってたからってその間の言動を忘れたりするようなやつじゃない。むしろ酔ったふりをして日頃差し控えている毒舌を振るったり、ほかの酔っ払いたちの失策と本音の披瀝を収集しておくタイプだ。だから、七緒自身が自分にどれだけ羽目を外すことを許容するか、その境界を曖昧にすることだけに、酒の意味はある。

『―――七緒は指キレーねー』

たっぷりと時間をとって、その左手を救い上げた。あのこが意図をおしはかるように。

てのひらのうえで、わずかに指に力がこもる。次の瞬間それは何でもないように緩められた。金の睫毛を通して、七緒の表情を見る。ほんの少し、眉根が寄せられた気もする。

例えば、キスマークならば、七緒は決して許容しなかっただろうし、それ以外の接触もきっとそうだ。ましてやあいつから何かを望むなんてことはあり得ない。その意味を知っていたとしても。だから、そうではない風を装う。互いに、そういう言い逃れの余地を残しておかなければ、あたしたちは、身動きが取れない。何も生まない曖昧な行為のなかでしか、あたしたちは。

『―――』

指にもう一度力がこもって、あたしの檻を逃れようとする。もう遅い。視線の意味に考えが及ばないほど、幼くも鈍くもないのだ。

七緒が右手を伸ばす。耳の後ろ、髪を梳くように右腕を肩に預けてくる。寄せられる重さのままに、ふたりの間が狭まった。

視線に炙られた膚は、熱を帯びていく。――こちらの手の冷たさに気付くだろうか。

指のまたに指を差し込む。七緒がその感触に、小さな笑いを―――それはすこし作り物じみてもいたけれど―――洩らした。

『何ですか、いったい』

答えは必要ない。だから代わりにとっときの笑顔を返した。あのこが昔褒めた。

『……』

視線を絡めたまま、唇で薬指を食んだ。

『っ…』

何かを言いたげに一瞬唇が震えて、けれど何も言えぬままに閉じられる。舌の先で、皮膚の柔らかさを確かめる。

糸切り歯と切歯と、唇と。人間のいちばん原始的な武器。あたしはその使い方を知っている。

もう一度、深く銜え込んで、その場所を捕らえる。多分、七緒もその意図を悟っただろう。

 

顎に、力を込めた。

唇の間で、骨が一瞬跳ねる。腕を引いて、左手が逃げた。

それが反射的なもので、七緒の意思とはかかわりが無いと、分かっていたけれど、明確な拒絶に力を失う。その手をとり続けることができない。濡れた唇に外気が冷たかったのは一瞬で、すぐに舌が口蓋のあるべき場所に収まる。

まずい、と後悔の滲む表情を七緒が見せる。こんな顔をさせたいんじゃなかった。

薬指に針で突いたような血のあと。小さなものだ。舌の上に血の味も残さないほど。

それでも、処置はしなければならない。

『ごめんね』

薬箱を求めて立ち上がるその手を掴まれた。座ったままの七緒に、腕を引かれて膝をつく。

『…謝らないで。

 いえ、わたしのほうこそごめんなさい』

言い淀む七緒は、憐れなほどに、戸惑っていた。

この行為を読み解くことばも、質すことばも持たないのだ。きっと。それくらい馬鹿げた行為だった。

『手が当たったんじゃないですか?』

このこだって言い抜けようとしてそれができないと分かっているのだろう。こんな、あかい濡れた目をして、自分の鼓動の速さを知りながら、いつまで知らない振りができるというのか。

七緒が、握る手に力を込めた。

唇を湿らせて、ことばを口に乗せる。一瞬のぞいた歯の皓さが目を射た。

『噛んで、ください。

もう一度』

馬鹿げた行為だ。何の意味も無い。けれど、その馬鹿げた行為を許すことには、意味が生まれるのだ。





 


Does she turn you on

Diggin in her wound it's done



GUANO APES

Anne Claire