<七緒>

カルティエの、平打ちリング。

左手の薬指にここのところ、それを欠かしたことが無い。正直に言えば、静脈の透けるわたしの肌に、ピンクゴールドのその色はあまり映えないのだけれど。

独身のわたしがなぜそんなものを、と問われれば、答えに詰まる。男避け、とことさらに口にするのも躊躇われるし、好きだから、というにはそのデザインは無骨すぎる。重ねていうが、さして似合いもしないのだ。

 

本当のところを言えば、それは傷を隠すためにある。

薬指についた、小さな痕。

訊ねた誰かに見せてみれば、拍子抜けしたように「何だそんなもの」と一言投げて興味を失うだろう。皮膚をわずかに変色させる程度の、本当にちいさなきずあと。指輪で隠れる程度の。

注意深い人間ならば、同じそこばかりを執拗に傷つけることに、特殊な職業かおかしな趣味を疑うかもしれない。

けれどわたしは隠さずにはいられなかった。それをつくったのが、わたしの姉だという、ただひとつその理由のために。

勿論それは、ほんのちいさな悪ふざけの結果に過ぎない。拘泥しているのはわたし自身だ。

 

わたしたちは、その夜、いつものように自室で他愛ないおしゃべりに興じていた。どんなことを口にしたのかも、覚えていない。たぶん、いつもの通り友人たちの噂話だとか、付き合っていた男の愚痴だとか、そんなものだろう。ただなぜかそこにアルコールが入ったのが、異常といえば異常だったかもしれない。

『瓶が可愛かったから買っちゃった』

からからと笑って、炭酸の弾ける小瓶とグラスを床にじかに並べる彼女は、常とは変わらず快活で、ただ笑み崩れた頬が少し青かったかもしれない。

わたしはといえば、アルコールが入ると頭の芯が痺れて意識が濁るのが常だから、そのときはほとんど聞き役に回って、適当な相槌を打っていたはずだ。

『七緒は指キレーねー』

わたしがフローリングにだらしなく投げ出していた左手を、彼女が握りこんできたのは、覚えている。

補足しておくが、乱菊という人間は人懐こい性格はしているけれども、決して相手との距離を不躾に縮めたり見境なくスキンシップを図ったりする人間ではない。だから、酩酊はあるといえども、ある種憧れをもって接していた姉がそんな風に近づいてくるのは純粋に嬉しかった。わたしなりに、その親しさに応えようと思ったのだ。

―――酔っていたのだ。

わたしが思う以上に、わたしの理性は遠出をしていて、そして身体の統御も失っていた。

浮かれたわたしの頭は、乱菊の頭をなでてやろう(なぜそんな選択をしたのか、わたしが聞きたい)と右腕を持ち上げて、けれどその手のひらは狙いを外れて乱菊の頬を掠めた。金の髪に隠れた耳たぶが、思いがけなく熱かった。

蒼い眼が、見開かれる。

脈絡のないわたしの行動に驚いたのか、支えをなくしたわたしの身体を抱えようとしたのか、彼女はとっさに腕を突くようにして身を引いた。その肘が、ボトルを弾く。

カクテルのボトルがまだ重たさを保っていたことと、ちょっとしたこだわりで鉛硝子のフルートを持ち出して来ていたのが事態を悪くした。硬質のガラスはわたしたちの揺らぎをそのままその身に受けてぶつかり合い弾き合い、煌きながら破片を跳ね散らす。

互いがどんな風に動いてどんな作用でそうなったのかわからないけれども、ともかく気がつけば床は惨憺たる有様で、一瞬遅れて乱菊さんは盛大に不運を罵りながら拭くものを取りに駆け出したし、わたしはとにかく破片を集めようと手を伸ばした。

『―痛っ』

酔っ払いが余計なことをするものではない。残っていたフルートグラスの脚に左手を掻かれ、ちいさな傷ができていた。

『あーもう危ないでしょ!いいからアンタは下がってて』

折悪しく戻ってきた姉にベッドの上に追い立てられて、所在が無い。

『なぁに、怪我したの?』

覗き込む瞳はいつものそれで、わたしは自分の酩酊を自覚する。

『ちょっと手、出して』

大丈夫です、という強がりは通じない。たいした怪我ではないし、痛みもないけれど、自分の判断があてにならないのは先刻承知だ。

大人しく左手を預ける。

それが、数分前に褒められた指だったことに、どこか安堵を感じる。

 

左手を持ち上げられて、見つめられる。破片なんか残ってないでしょうね、という呟きは独白めいて宙に消える。試すがえつする指が、指の叉をなぞる。

金の睫毛にけぶる瞳に、映し出されているのが自分の一部だということにどうしようもない羞恥を感じて、唇を噛んだ。

そうして突然、横銜えに薬指を唇に挟まれた。なにを、と声をあげる前に傷に舌が触れる。

 

―――あなたこそ、破片なんかあったら危ないのに

軽口も警告も、音になる前に消える。乱菊の視線に呑まれて、指以外の身体はどこかに失せたような心地がする。

暖かい舌が、皮膚の上を移動する。指と、彼女の間を隔てるものは何もない。装うことも、鼓動を隠すこともできずに、0の距離での接している。取り込まれているのは末端に過ぎないのに、身体の芯まで乱菊の前ににさらけ出している心地がする。酩酊のなか、視線が噛み合った。

少し眉根を寄せた、形容し難い表情をしている。その目を伏せて、顔を傾けた。

すこし唇が窄められて、わたしの膚は浅ましく彼女の奥に吸い寄せられる。

歯が触れた。

―――思った瞬間、痛みがはしる。

反射的に腕を引いた。

 

咄嗟に頭を過ったのは、しまった、という後悔だ。

 

引き抜いた指は、いつものわたしの身体だ。乱菊が支配していたそれでは、もはやなく。 

「…ごめんなさい。顔に当たりませんでした?」

先刻のそれが何だったのか、考えることもできずに、わたしの喉は最適解を探している。望んでいるのは、こんなものではないのに。

「大丈夫。

ごめん。珍しく素直だったから、悪戯したくなっちゃった」

爪が当たったか、手が弾いたか、

乱菊は少しだけ強張った顔をしていた。頬に緊張が残っている。

「―――よかった」

微笑んだのは、心の底から本心だ。だけれど、微笑以外に何があっただろう。あなたは悪くないのだ、と伝えたくてけれどそれはわたしの反射的な行動を見つめなおすことに他ならない。

拒絶なのか、なぜ拒絶したのか、拒絶したものはなんなのか、その全ての答えは、乱菊ではなくわたしの中にある。答えてはならない問いが、そこにはある。

ただひとつ、そのとき跳ね除けたかったものは乱菊その人ではない。それだけは確かだ。

痛みなど、問題ではない。

乱菊が笑い返して薬箱を取りに立ち上がった。

これで終わってしまう、という思いが胸をよぎる。相手にとっては意味のある行為ではなかった。けれども、それでもなおざりにしていい相手ではなかった。否、したくなかった。

 乱菊の腕を掴む。強いて引き寄せるのは、それがわたしの意志だからだ。どうしてもそれが欲しいと。それを理解できなくともいい。

行為の意味など。どうせたいした考えがある訳がない。単なる思いつきだ。彼女はおおどかでうつくしく、突飛で直感的で理解など追いつきはしない。それでいい。彼女がわたしにくれるものは、それで十分なのだ。

だから言った。

「―――噛んでください。もう一度」

 

薬指の傷は、少しだけ腫れて、やがて鬱血痕と瘡蓋になる。毎朝、わたしはそれを指輪で隠す。

昼の間、冷たい金属の下で熱をもつそれの理由を問われて、姉のせいだと答えることはできない。疑われるのは暴力に違いなく、しかしわたしたちの間に暴力性はなく、しかし意味もない。わたしは何も答えることができない。

猫に爪を立てられるように、その行為の後ろに意思を読み取ろうとするのは無価値だ。わたしがそれに何を感じているか語ることも同様に。

ただ、わたしはそれをみとめている。

夜毎、同じ行為を請うているのは、わたしだ。

 

 


Anne Claire, that is no love you got to share

Anne Claire, going into a sad lag of flair



GUANO APES

Anne Claire