驟雨に見舞われたのは、深夜。

駅前でバスを逃し、足を急がせるその途上で、ばらばらと音をたてて水滴が落ちてきた。とっさに手近なマンションの車寄せに飛び込んだ瞬間、地響きに似た豪雨が降り注ぎ始めた。

(これは、出られん)

 

置き傘も鞄の底の備えも、ついぞ欠かしたことが無いというのに、この日に限って手元に何も無かった。それというのも勤め先はとっくに夏季休暇に入っているからで、無論砕蜂とて出社していない。たまの休日にと、猛烈な勢いで家事をこなしている最中に、これも本来は休みのはずのクライアントが泣き声で即時対応を求めて来、先送りにできないと即断した砕蜂が現場に直行したせいだ。

半泣きの担当者を唸り飛ばすようにして基幹システムに端末を繋いだのが9時半。バグにパッチを当て、回避ルートを整備し、予備追加の手配を終えたのが開場直前。流れ込んできた衆群の喚声を聞きながら、負荷状況を監視しつつ、過負荷のかかったアプリを手動で予備ベースに配置しなおすという消耗戦に耐え。かろうじて全てのトラブルを回避して、閉場のベルを耳にしたのが15杯目のコーヒーが運ばれてきた時だった。ようやく緊張を解いて、あまりの剣幕に遠巻きに囲んで作業していた関係者から事情聴取の時間を設けたのが21時。それが終わってから、夕食がてらに観光客でごった返すカフェで報告書を纏め上げ、送信したのが23時半。

そうして電車に飛び乗り、おりたところでバスの営業終了に気づいて、さて歩こうと思ってみればこの雨だ。

 

(なんという…)

 

本当についていない。

走ろうかとも思ったが、今日のバッグはとりまわしを重視した軽量素材。完璧な防水は期待できない。PCを濡らしてお釈迦にするのは馬鹿げている。

なまじ徒歩と決めて足を進めたがばかりに、駅前の喧騒は遠い。タクシーのヘッドライトも間遠く、コンビニまでにも中途半端な距離が開いている。

 

見上げれば、雨足は強くなるばかり。しかし、空は煙りつつも何処かしら明るい。

(…夕立のようなものか)

そう思えば、存外に早くあがるかもしれないと、ほんの少し気分が上向く。

そこで思考を止めてしまったのは、やはり疲れていたせいかも知れない。

 

 

 

「―――砕蜂…か?どうしたんだ?」

 

 

 

かけられた声に、知らず伏せていた瞼を上げれば、見知った顔が其処にあった。

「東仙…」

見知った、といっても取立て親しいわけでもない。学生自体に同じ活動をしていて、今では時折仲間の集まりで顔をあわせる程度の。

目の前の人間と現在地が結びつかず、砕蜂は瞬く。

「なぜいる」

「なぜって…ここに住んでいるんだけど」

「ここに?貴様、この路線で帰ると言った例がなかったではないか」

卒業生が集まれば、お開きになっても皆何となく別れがたくてめいめい二次会に散るか、同じ路線同士で寄り集まる。その小さなコミュニティで、砕蜂は彼を見たことが無かった。

「…きみがいつも一次会だけで帰るからだろう。それに、ああいう場所ではタクシーを使うことにしているから」

ああ、となんとなく得心が行った。無礼講の集まりとはいえ、東仙のように歴然とした「ハンディキャップ」を持つ人間には何かと気を回す人間が多い。それが、この男には気詰まりなのだろう。

「―――このこを連れて行くわけにもいかないしね」

(この子?)

何のことだ、と東仙の左手の下―それは道路寄りだった―を覗き込んだ砕蜂は、もう一度のけぞった。

暗闇に白い歯だけが浮いている、と思ったのは黒い毛が闇にまぎれていたからで、其処には生暖かい息を吐く大型犬が鎮座しているのだった。

爪音は雨が地を叩くのに掻き消されて、耳に届かなかったらしい。

「…犬、苦手だったかい?」

心なしか、面白がるような口調で尋ねてくる。

「…いいいや、いたのに驚いたものでな」

そう搾り出して右手を頭の上に置けば、べろん、と舌を伸ばしてきた。

(…!)

かろうじて声は抑えたものの、気に聡い盲目の男には多分、見透かされている。喉の奥で笑う声が、聞こえた。

「…さて、よければ私の部屋で雨宿りしたら?」

おや、と思う。こんな風に不用意に自分のテリトリーに他人を迎え入れる人間だったろうか。

(むしろ きっちりとした壁をつくって他者を許容しないと)

この変わりようはどうだ。或いは、自分が知らなかっただけだろうか。

「…いや、それよりも傘を借りれるか。後日返す」

東仙は少し首をかしげて微笑った。その困ったような表情には見覚えがあるというのに。

「傘はあまりお勧めできないな。―――そうやって出かけた私たちがこんな有様だから」

東仙は軽く膝をあげて見せた。常夜灯の乏しい光にも、下衣が濡れそぼって臑に張り付いているのが分かる。

「どうせ長くは降らないだろう」

そういってあまりに軽く手招くので、砕蜂も我を通すことができない。

「すまんな」

「かまわない。どうせ眠るのは明け方だ」

 

 

 

危なげなくエレベータを降り、鍵を回して辿り着いたのは、予想以上に殺風景な部屋だった。物がない、というよりも凹凸が極端に少ないせいで、陰影に慣れた目には奇異に映る。

「適当に座っていてくれるかな。

お茶も出さずに悪いが、鈴虫を拭いてからでないと私も上がれないから」

灯りのスイッチは左側にあるから、といいながら、両手に抱えたタオルのなかから一枚を引き出して渡す。

鈴虫、というのがさきの黒犬のことと気づくと、舐められた右手が酷く気になり始めた。

悪いな、と口の中で返すと、笑い含みの声が返ってきた。

「手を洗うなら、洗面台はその手前だから」

 

 

ぼんやりと、其処にあったソファに腰をかけると、部屋全体に巡らされたオーディオセットに目が止まる。画面がなく音響機器だけでこれだけの設備を備えているのは、当然のことながら、彼らしい。さらに見やった続き部屋に、キーボードがあった。

(ピアノか)

覗き込めば、大手メーカーのロゴが見える。隠してはあるが、配線の複雑さからすれば機材はそれだけではないのだろう。

 

「…まだ、続けているのか」

「―――何だったら弾くかい?」

横合いから、声がかかる。

湯気の立つカップを持って、東仙が近づいていた。先ほどはまとめていた髪を、流しているのが少し印象に残る。

「いや、」 

気にするな、と言いかけて口ごもった。

(間がもたない)

雨音はまだ激しい。共通の話題もない、饒舌でもない己だが、せめてピアノでも弾いてれば気詰まりにならないかもしれない。

「たまには誰かに触れて欲しいんだよね。おかしな癖がついてないか、気になる」

(やはり神経質なのだな…)

そして人一倍気に聡い。それは頑ななまでに譜面に忠実だった学生時代の記憶のままだ。

「悪いな。少し借りる」

 

カバーを開けると、染みひとつ無い鍵盤が現れた。いつものように、指を伸ばす。東仙はカップをサイドボードにおいて、ソファにかけたらしい。

砕蜂はいつも、エチュードよりもさらにその前、音階練習からはじめる。響く音のかたちを確かめて、鍵盤のきれを知るのが、手始めの工程だ。半音階のすべて、逆進行、基点移動。その全てをグリッサンドに近いものからスタッカートまで。披露するわけではないが、念のためペダルの調子も見る。

(…………椅子が高い)

憮然として思うが、きちんと「調律」された楽器を弄うのは純粋に楽しい。使い込んだ電子楽器にありがちな、キースプリングの緩みも音の遅れもない。扱いがいいのだろう。

 

乾いた空気が、心地よい。

雨音は、予想に反して、小一時間の基礎練が終わっても弱まらなかった。

「―――止まないな」

男は寛いだ様子で声を投げてきた。

「そうだな。―――礼を言う」

「なに、さっきも言ったとおり様子を見て欲しかったから―――何か気づいたことはあるかい」

機械的な問題のいくつかを口にすると、東仙はいちいち頷きながら訊いている。

「問題というほどでもないな。むしろ私のピアノの鍵盤が少しゆるいのに気づいたくらいだ」

「緩い?戻らないんじゃなくて?」 

電子ピアノのキーは本来、本物のそれに比べてきわめて軽く、滑りがいい。どのメーカーも如何にそれを本物に近づけるか腐心している。キーの形状と素材で、象牙ないしその代替品に似たタッチを生むのが理想だが、年を経るに従ってその差は開いていく。ただ、多くの場合、それはキーの磨耗によるものなので、結果的に疲労骨折という終末を迎えることが多い。それは鍵盤上では、押したキーが戻らないという症状になって現れる。

「まだ戻らない、というところには至っていないな」

「…少し、癖がついてしまっているんだろうね。砕蜂は10度和音や幅の広い音域移動のとき、少し基点のキーに体重を残したまま動くだろう」

言われて、目を見開く。

砕蜂の身体は、ピアノを弾く理想の体型よりも小さい。それをカバーするために、肘から先だけでなく身体全体を移動させる。その負荷が、残したキーにかかるのだ。本来垂直方向に移動することしか想定されていない蝶番は、水平方向に加えられる力に弱い。

「…まいったな、キーはきちんと叩いているつもりだったんだが」

「椅子の位置で多少はフォローできるかな」

立ち上がって背後に回る。なぜか冷えたカップを握らされた。

砕蜂に腰を上るよう言って、椅子をさらに引く。ついでとばかりにクッションを乗せた。

「どうぞ」

「…」

座ってみれば非常に安定しない。これでは右ペダルを踏み割りそうな気がする。

「おいこのカップはどこに―――」

「なるほど。この感覚か」

突然、東仙は椅子を跨ぐかたちで隣に座った。

(まて)

「肩が鍵盤に近いほうがリーチは稼げるけど、動き辛いし、打鍵に力がなくなるだろうね」

「…おい」

「難しいな…」

 傾げられた首が、存外に近くてどうしていいのか分からなくなる。

 「おい」

 鍵盤と指の腹が触れあう、その様子さえ見て取れる距離。見慣れた光景の中の指が自分のものよりも長いことに、今更ながらに気づく。

「…近」

 近い、離れろ、と抗議しようとしたところで、カップを掴まれた。正しくは、カップを持った手を掴まれて、逆の手でカップを引き抜かれる。身体の位置はそのままに。

唐突に、掴まれた指に、くちづけられた。

 

接近と接触の関係を予想できなかったほど無知でもなかったが、少なくともこのおとこから肉のにおいを嗅いだことは無かったために、反応に迷った。学生時代から一度たりとも。その意外さに、先が気にならなかったといえば、嘘になる。―――ひょっとすると、自分はそれを待っていたのか?

迷いにとらわれる砕蜂とかかわりなく、東仙の唇は幾度目かのキスを落とした。指先からはじまったそれが、掌、手首、肘の内側に移る。

右腕をあげた、肘を首に巻きつけるでもなくしかし間合いにおとこを踏み込ませた半端な姿勢で、砕蜂は自問する。

 

指先を支える四指と、添えられた親指と。たったそれだけが振り払えなかった。

腰に腕を回されるわけでもなく、見つめる視線もなく。けれど、拒絶は何に対してのそれなのか分からず、意地になって無抵抗を貫いている。こんなもので揺るがされたりはしない、と。

東仙は奇妙なほどこちらに何も示さなかったし、問わなかった。

―――こういう場面で約束された、意味ありげな視線の応酬もなく、熱に浮かされたような瞳を見せることも無く。そういえばこの男は視線によるそれを必要としないのだと改めて思わされる。

(そんなものがなくとも、このおとこには、)

相手には何も見えていないはずなのに、全てを把握されているという状況に肌が粟立った。

東仙は、服を脱ぐ前から 分かっているのだ。ただ、それを取り出して見せられただけで。

 

ただ、理由が欲しかった。きっかけ、といってもいい。

「―――これは、宿泊料か」

そのひとことで、近づいてきた唇は頬を掠めて、耳朶でふ、と笑った。

「ちがうね」

吹き込まれたその場所から、熱が。砕蜂に見えない世界を見ている男の言葉には、奇妙に力があった。

 

 「強いて言えば、互いが望んだことだから」

そうなのか、とおかしな具合に納得する。私はそれを欲しがっていたのか、と。他人から知らされるなど、きっと筋違いも甚だしいだろうに。ただ、己の中に、何かを欲しがる疵があると労わられるのは、悪くなかった。

 

掌に触れる素肌から、温みと鼓動が伝わって来る。それはとても懐かしく、身体の芯を暖める潤みが増していく。

「そうだな」

なぞる指の動きに従って、かくん、と頤が上向いて無防備な場所を晒す。こんな風に弱いところを合わせるのはいつ振りだろうか。欠けたものは戻らず、濡れたままの傷痕が愛しい片割れを求めて口を開く。それは、こんな褐色の膚をしていた。

「楽しめるだろう?きっと」

その唇を味わいたいと、確かに思った。この声に浸るのは心地よかったから。

「…悪くない」

 

 

 

 



 

 




諸君、わたしは捏造が大好きだ

 (すんません 元ネタ知らない)