交差過の一瞬は突然やってきた。

 音もなく迫る爆撃機の見えるはずもない機関砲の動きと砲手の所作まで見える気がする。目のない猛禽類に、いすくめられた兎ならこんな心地がするだろうか。

 先頭の一機が、機関砲を構える。

 掃射。

 此方の位置を掴みきれない砲手は、緑影に徒に銃弾を浴びせる。奇妙にリズミカルなその発射音を縫って、甲高い飛翔音が届く。

 (あれは)

 思考を塗り潰すように、発射音が迫る。 自軍の砲弾の爆発音がさらに聴覚を塞ぐ。間断なく降るそれは、発射角を最大限にあげてあるために水平方向への飛散は少ないが、着弾したときの威力は侮れない。

 「右翼213隊、高射機関砲に切替え!」

 「右翼3隊、続け!」

 敵機に続いて、こちらも機関砲を用いる。命中率はあがるはずだ。

 ―――――――!!

 また、飛翔音が。機関砲のそれではない、あれは投下弾に取り付けられた調整翼の

 「軍団長!」

 機関砲のけたたましい発射音と爆発音に、さらに高度を下げた敵機のエンジン音が加わる。目視で、こちらを発見できる距離だ。

 「軍団長!!」機関銃弾の音はいまや耳を聾するばかり、装甲車内部においてさえ、声を張り上げねば声が届かない。

 「軍団長、敵の投下弾は」

 あの飛翔音は、

 「焼夷弾です」

 (な…に…?)

 「中腹まで、南壁全体に―――」

 瞬間、爆発音が響いた。

 「二群第3機撃墜、2時方向へ失速!4機5機、翼部着弾、高度維持」

 着弾した2機が、戦列を離脱する。追撃する余力はない。

 視線を戻した先、よろめく機体は見る間に高度を下げ、黒煙を吐く。脱出されれば厄介な伏兵になるかもしれない、と思った瞬間、その意を読んだように機関砲がその翼部に命中した。エンジンが火を噴く。鎮火できる速度はすでになく、続いた着弾によって各部から小さな火が噴出す。やがてひときわ大きな火が弾莢を包むと、満たされた油脂が弾けた。狭いガラスから見つめるその間に、機影はそれ自体が白熱した雫になって瓦礫と黒煙を撒き散らし山陰に激突する。火の手が上がる。

 「火が、広がるな」

 半年前であれば、水分をたっぷり含んだ照葉樹と霧が類焼を阻んだだろう。今、木々は葉を落とし山は乾ききっている。まさか山火事には至るまいが、作戦が失敗した後に兵たちが山に逃げ込むのはあきらめねばならない。

 (―――失敗?)何の失敗か。いまさら。2千の兵の命を預かっておいて。

 敵機の第二群は、3機の離脱を残してゆるゆると帰投する。高度を上げるその姿は、こちらの攻撃を免れるというよりも腹を満たした魚さながらで、余裕さえ感じさせる。

 「第三群は、どう動いている」

 「見当たりません。残機はどこかに待機中です」

 捕捉できない?なぜ、こんなにもすべてが後手に回る!

 握り締める指に力が篭る。目の前に広がるのは、接写と俯瞰の入り混じった無音の世界だ。目視ではない。この砲台からは、両翼の最端は見えず、薄汚れた陣営図と地形図があるばかり。むしろ爆発音と発射音のほうがまともに届く。

 なのに、砕蜂の目には、爆風に飛ばされ、飛散する鉄片に肩を穿たれる兵士たちが映るのだ。

 連射した機関砲は、台座までを過熱し、砲手の掌を焼く。掌に手巾を巻いた兵卒が、砲弾の補充に走る。彼は長い徹甲弾を抱え、振り返ったそこに炸裂弾が。至近距離で破裂したそれは、彼の身体を裂いて吹き飛ばした。肉片は輸送車に叩きつけられ、漸う落ちた。

左翼の将校は、最初の爆撃に穿たれた爆破痕に足場をなくし、傾いた台座を正常角に戻そうと必死に兵を叱咤している。そこに帰投機の砲弾が。兵士が蜘蛛の子を散らして支えを無くし、砲座は大きく傾く。爆破痕の底側にいた二人が、逃げ遅れて押し潰される。なすすべもなく差し出した腕が土で汚れていながらも、まだ艶めいて若いことに目が奪われる。

 麓の1隊は機関掃射に無線機を破壊され、伝令が走りだした。杣道を駆けるその脹脛に、跳弾。もんどりうって倒れる彼は、誰かの名を呼ぶ。その目に、機影が映る。噛締めた口に、血と土の固さを感じた瞬間、その背を機関砲の破片が吹き飛ばす。―――そのすべての顔が、砕蜂の見知った部下だ。そして、幻影の中ですら彼らに手を差し伸べることさえも叶わない。

 「前方12時、機影…いえ、あれは―――」

 観測手の動揺に、意識が司令室に馳せ戻る。刹那、地を揺るがす轟音。連続する振動と、破裂音。

 「敵軍野砲砲台が―――」

 炸裂。

 

 

 瞬時、感覚が途絶える。

 無音の世界のなか身体は振動だけを知覚し、 衝撃。

 瞬きひとつのあいだ、天地の境を見失う。 次に感覚が戻ってきたのは、電信兵の一人が砕蜂の腕を掴んできたそのときだった。間断ない呻きと車外の炸裂音に、状況が蘇る。 跳ね起き、見渡せば、零距離射撃の衝撃に天地逆になった車内で部下たちが漸う身を起こし始めたところだった。掴んだ腕を促して、電信に応答を促す。

 「370隊、不通!」

 「251隊、不通!」

 「730隊、自決!」

 「左翼2分隊、不通です!」

 視界の隅で、砲隊指揮官があおのいて嘆息した。訊かずともわかる。これまでか、と。

 「―――敵軍陸上隊、確認しました!30キロ先、走行中です」

 

 爆風にドアを捲り上げられ、機器類を破壊された装甲車の中で、壊れかけた探査機を必死につないで編成の報告が続く。いっそ笑いたくなるほどに理想的な隊列だ。飛行部隊、陸上砲兵隊、陸上制圧歩兵部隊。そのどれもが、確実にこちらの息の根を止めうるだけの優位を確保している。誰も死なない作戦というものが、いかほどに敵に戦慄を与えるか、思えば初めて知ったかもしれない。周囲を見渡せば、馴染んだはずの面々が初めて見る表情を浮かべている。途方に暮れたような、驚きのような。重症者はいないが、炸裂弾らしき破片で頭部半分に大小の裂傷を負った通信兵がいる。苦悶に混じるのは、恐怖というよりもむしろ戸惑いだ。 なぜ、まだこうしているのか、と。 決定的な敗北を、彼らはまだ知らない。 だから、彼らを伴って死ぬのが己の役目だ。

 砕蜂が、右手をあげる。位置を特定され機能も失った装甲車は、司令部としてもう使えない。

 「火を――」

 「―――軍団長!」

 血塗れの衛生兵がまろび込んできたのは、まさにその刹那、倒れる勢いをそのままに、砕蜂の腕を掴み、否、掴み損なって隊服の袖を握りこんだ。堅い布地が悲鳴をあげる。

 「右翼は、 砲…火により全滅、しました、 陸上隊は、とどめすらささず、寄せてきます。我等の死体を踏みつけにして……!」

 血泡を吹きながら続く言葉は彼の憤激そのもので、その意味だけを汲んで受け流すことを許さない。 ただ憐れだった。

 「ど、…っか、お逃げ 下さい、どうか……! 軍団長さえご無事、ならば」

 支えた身体は、胴を大きく抉られていた。この状態でどこから走って来たというのか。恐らく、彼を支えた誰かの骸が、このそばにある。  言い募る間にも、その声は明らかに弱く か細くなっていく。誰もが、彼の意をはかってその手を伸ばせずにいた。

 「外に、車があります、…どうか…」

 (わたしも、神と呼んだ彼れのために死にたかった)

 誰かのために死ぬことで、己の生を全うしたと、そう信じたかったあの頃。彼もまた、砕蜂の生に彼と友の命すべてを賭けている。砕蜂が生き延びることに、彼はすべての望みを賭けている。

 けれど、部下たちなくしては、砕蜂の生もまた、意味を持たないのだ。

 「―ありがとう」

 (貴様らを失って、わたしに如何生を送れというのか)

 砕蜂を軍の長という砕蜂たらしめているのは、他ならぬ彼らだというのに。

 目を合わせても最早焦点が合わない。ただ、はやく、という懇願だけが唇を震わせる。

 「今、楽にしてやる」

 抱き込んだ身体に、銃口をあてた。

 

――――!!

 

 血塊と肉片を撒き散らして、動きが止まる。袖の紀章は、ちぎれてその手に残った。

 「―火を放て」

 動いたものは、二人だった。静止した三人が、逃げてくれと内心で訴えているのがわかる。けれども、団旗を引き出した砕蜂を見、唇を噛んで残りの火器類に手を伸ばした。

 「時限にしますか、それとも感知式に」

 自爆装置は、敵の侵入を感知して作動させることもできる。けれど解除される危険を冒したくなかった。

 「時限式でいい。2分だ」

 大きな爆発が起これば、敵味方ともに位置を知らせることになり、かつ脱出からの時間が短ければ短いほど、脱出者の位置予測は正確になる。 さきの衛生兵のような部下を、もう生みたくなかった。

 ――――いずれにせよ、敵の本隊は間近にある。

 「ただこの瞬間から、本隊全員の任務を解除する。残りたくば、残ってもいい。降伏も許可する。

 これより後、わたしに従うものは党としての栄誉は約束できない、黒軍第二旅団長砕蜂の私軍だ。奴らに一矢なりと浴びせようと思うのなら、わたしに続け。南壁座標15.26に布陣する。

 伝令、」

 隻眼となった兵が、頷く。

 「最期の連絡だ。個人コードは」

 一連の数字は、機密か重要連絡専用のそれで、他者の前でそれを口にすることは、実質それだけで自死の報告と同じになる。

 「降伏を推奨したと。あとは定型でいい」

 言い置いて、もう一度自爆装置に戻る。認証。 はじめて触れるそれは、何のためらいもなく、次の瞬間から秒を刻み始める。その上に、畳んだ団旗を載せた。

 「貴官らの活躍に感謝する」

 

 

 

 間断なく続くのは、やはり大型砲の飛翔音と着弾の炸裂する振動ばかりだ。砂埃と、肌を叩く金属片と焼け焦げた土、硝煙と血の匂い。 横転した車両と、四肢を吹き飛ばされた死体。衣類が剥ぎ取られているのは、爆風の激しさの証。 その一角にあるのは、爆撃による破壊の痕だけだった。生き残った兵たちは、みな移動している。山影には焼夷弾を撒かれた。狩の獲物のように、追いたてられる。

 砕蜂に付き従ったのは、三人。距離をおいて、援護する。残った人間は両翼の立て直しに走った。腰の無線機から、絶え間ない報告が響くが、これもいつまで続くだろうか。せめて陣を立て直すまでは持って欲しいと思いながら、崖を滑り降りる。

 奇妙なほど、敵機の痕跡がなかった。 機影はもちろん、哨戒する飛翔音は爆発音にかき消されて、その所在を知ることができない。そして、戦場に溢れるほどに舞い散るはずの伝単が、一枚も見えないのが異様といえば異様。

 (陽光が遠い…)

 霞は払われ、ただ黒煙と飛散する土埃に視界を塞がれる。馴染んだ硝煙の匂いは、爆風にも吹き払われることなく鼻腔にとどまる。そのとき、プロペラ音が聞こえた。煙に阻まれて確認はできないが、かなり近い。高度は100mを切っているだろう。おそらく、偵察用の機体だ。先の都市爆撃でも何度か見かけたことがある。複座で、高度と速度と搭載量が低い代わりに滞空時間を伸ばした脆い小型機。こちらの砲座を徹底的に破壊した後で、ゆっくりと姿を見せて情報だけを浚っていく。

 負ったライフルが重い。 本来、砕蜂が輸送するような器物ではない。食い込むリードをかけなおして、方向を見定める。従ったうちの二人は銘鏤と澎湃という子飼いの部下で、無反動砲と機関銃をそれぞれを負う。もう一人は特殊部隊出の随行官の涵陝で、見たところ拳銃しか携行していない。恐らく、彼女は万一のときの保険なのだ。不随になったとき、或いは、武器が尽きたときには、拿捕の恥辱を被る前に彼女の弾丸がこの胸を貫く。

 (やり過ごすか、)

 西側に崖があるはず。プロペラの旋回音はかなり低い位置にあるから、谷を探索して上昇する途中だろう。樹影に紛れれば、砕蜂程度数日は隠れられようが、地形は解析されもっと大規模な火力が投入されるだろう。落とせば、機体を援護している本隊に位置を知られるが、やり過ごしてもこの戦力差ならば末端から潰されていく。

 (それに、日暮れ前に収束させたい)

 砕蜂の隊は、命令系統が復活したとしても、物量を欠き、部隊としては半壊の状態にある。このまま視界を失えば、個々に撃破されるだけだった。そうなる前に、召集して隊列を立て直したかった。まして、不利になるのは集団戦においてのみではない。こちらが破面、と呼ぶ敵軍の精鋭は、身体機能をある方向に特化した異形の集団だった。

 ある者は感覚を、ある者は筋力を高めるために身体の一部を切除し、その機能に特化した人工の感覚器や義肢に接続する。切除が早ければ早いほど、残された神経節の代替機能が発達して、義肢の性能を引き出しやすくなる。そうして彼らは個々の能力を高める。

 (闇の中で、感覚知に秀でた部隊を投入されれば―――)

 狩られる。それは彼らに誓った戦闘でさえない。栄誉も誇りもない、家畜の屠殺に等しい。

 南で三度、爆発音がした。破裂の響きが高いのは手榴弾だ。はや歩兵同士の戦闘に至ったのか、自決か。それほどに、事態は逼迫している。

 「落とせるものなら、落とす」

 腕を振って後ろの指示を出す。使えるのは、ライフルと銘鏤の携行型無反動砲だけだ。

 崖間際の露出した岩盤にライフルの補助脚を咬ませて、 固定する。本来の用法ではないから、反動で留具が毀傷して、撃てたとして3発が限度だろう。 狙いを定める。背後でそれに倣う部下の気配がする。回転音が近い。軌道はほぼ読み通り。 待つことは、苦手ではなかった。なのに、かつてない焦燥を覚える。それが、死を前にするということなのか。

 (はやく、来い)

 ―――こうしている間にも、喪われる命がある。

エンジン音がひときわ高くなる。梢に触れそうなほどに、何かを探して高度を落とす姿勢だ。煙は晴れない。あちらの探知機が何を以て機能しているかわからないが、どうあがいても不利なのはこちらだ。

 不意に、陽光がさした。わずかな煙の切れ間に、煤けた翼がのぞく。崖の横手、鎌首をもたげるように、旋回する偵察機のノーズが覗いた。 引金を引く――――

 反動は、決して度しやすいものではなかった。右肩を突き抜ける衝撃をやり過ごして、2発。弾道を追う。硝子覆天板が砕ける瞬間、影になった観測員の肩が跳ね、続いて火花を散らしてエンジンルームの装甲が弾ける。すぐさまそれは撒き散らされる燃料に引火した。

 脱出出来る高度ではない。黒煙は、木々に遮られて見えなくなった。

 (まず一機)

 ふと振り返れば、空になった無反動砲を投げ捨てて息をつく銘鏤と目があう。ただ彼は黙礼した。

 合図ひとつを残して、斜面を駆け下る。 右半身が暑いのは、燃えだした北側の森から、熱風が吹き付けるからだ。 駆け抜けたさきは、爆撃によって岩盤が露出した尾根。台地がみおろせるはずだ。空からも丸見えになるが、偵察機が落ちた今、僅かながら猶予がある。無線機の報告が徐々に間遠になるのは、度し難い痛みをもたらした。

 (状況が、見えない)

 かたちのある情報が、入らない。ただ、目減りする2千の兵の命だけが肩に重くのしかかる。崩された道の先、視野を求めて露出した岩盤に駆け上がった。

 

 開けた視界に、一瞬、絶句する。

 迫撃砲に穿たれた痕が、尋常な数ではなく、こちらの陣営を荒野と変えていた。山肌は削られ、地形が変わっている。挟撃を企図した山道は、無惨に切り崩された土砂に塞がれ、もとより進むべくもない。絶え間無く降り注ぐ機関砲と迫撃砲の煙幕と土埃の向こう、確かに自隊の兵ががいる。機関銃のせわしない音も聞こえる。ただ、その姿が見えない。

 (奴らの死体が、ひとつもない)

 圧倒的な戦力差に、絶望する。横転する機動車にも砲台にも、どれも自軍の、この大地を映した黒の刻印がある。

 こんなものは嘘だ、と嗤いたがる己がいる。劣勢は明らかで、寄せ手はそのままここに陣を張る。そうして、拠点と道程を手にした彼らは、着実に友軍を圧していくだろう。

 ―――呆然と、煙の隙間を見つめていた。

 「…軍団長」 

 控えめな声は、横手から。

 「……ああ、今行く」

 背を向けた視界の端、何かが思考を穿った。

 (今、)

 細く続く尾根の岩肌、横転した輸送車の横手。ちらと何かが動いた。

 『軍団―――』

 こちらをむく機関砲の砲口が確かに己に照準を定めているのを見た気がした。同時に左肩に大きな衝撃を―――

 

 

 着弾。

 

 奇妙に軽い炸裂音だけが、耳をついた。直後、浮遊感。

 僅かな間、自失した。

 覚醒は、強烈な灼熱感によってもたらされた。

 身を起こそうと、胴を捩れば白熱した塊が脳天に突き刺さる。それが疼痛だと気づいたときには、息が上がっていた。さらにしとどに濡れた全身が、噴き出す血液によるものだと気付く。否、血を吸った軍服だけの重さではない。

 「か、涵陝……」

 堪らずに随行官の名を呼ぶと、焼けた肺が痛んだ。答えはない。左半身は動かない。 ようよう首をねじ曲げて、見覚えのある黒髪を捉える。 左半身の重みは件の随行官だった。気づけば銘鏤と澎湃の姿を捉えられない。己とて、もといた場所から10mあまりも吹き飛ばされて、今なお続く連射の轟音と間断なく降り注ぐ石片を浴びている。

 「涵陝、

 体が動かない。磐石の重みが胴を圧するようで、しかし重みとまごうたのは、左半身、なかんずく左腕に強烈な痛みを感じるからだ。脈動にあわせて灼熱感が打ち寄せる。

 呼び掛けは、音を成したか疑わしい。左腕は、全く動かない。疼痛だけではなく、強烈な目眩と悪心が身体を地に縫い止める。 地を掻けば、泥濘が指の間をすり抜ける。だが、

 (いま立ち上がらねば、)

 二度と立てなくなる。 焦りだけが利かない身体を突き上げた。朦朧とした意識は、寧ろ痛みを遠いものにしていく。 そうやって足掻き続けてどれ程だったか。右手が、傍らに聳える岩盤に触れた。 意識の外にある腕力で、上半身を引き起こす。それだけのことに息があがる。天地が逆転するような悪心は、奥歯を噛んでやり過ごす。

 

 ごとり、と。頭を預けるように砕蜂に寄り添っていた身体が崩れ落ちる。 ――予感が、あった。 彼女は呼び掛けに一度も応えなかった。砕もその首筋に触れようとしなかった。

 胸から下を、ほぼ血塊に変えたら随行官がそこにいた。 およそ下半身の名残と呼びうるものは何もなく。ただ白い頬を血だまりに浸して。 彼女が、砕蜂を弾道から反らそうと突飛ばした。恐らく砲弾はまさしくその身体を通り抜けた。 砕を殺す筈だった、その部下の。

 「ぅ……あ」

 何故、という問いかけは、言葉をなさない。

 「――――!!!」

 絶叫は、それすら爆音にかきけされた。

 「―――軍団長!」

 ただ、叫びが届いたか血の色が目に届いたか、駆け寄る足音がある。複数の。半身をなくした部下の、その体をかき抱こうとした己の左腕がなかった。痛烈な悪心を噛み潰して、しかし血で滑る右手はまったく用を成さない。その右手を銘鏤が押さえる。続いて別の手に肩を押されて軍服を裂かれた。

 「止血します!どうかお静かに!」

 咄嗟に跳ね起きるよう渾身の力をこめた腹は、喉元にせり上がる激痛と灼熱感を返してきた。息を呑んだ顎に、布が詰め込まれる。視界の隅に、間歇的に飛ぶ血と、モルヒネ注射の針。その瞬間間近に落ちた迫撃砲弾が聴覚を塗りつぶして、視野が急激に狭まった。暗転するように、砕蜂の意識は暗闇に落ちる。