2月12日木曜日

 その日は、珍しく9時台の電車に乗れた。

 日用品を抱えて、キッチンのドアを開けると、東仙がカウンターの上を闊歩していた。

「やあ。早かったね」

 こまごまとした瓶やケースのいくつかが、立ち位置を変えていた。ラベルが鮮明に感じられるのは、違和感に目を凝らしたせいもあるし、細かな埃が払われたせいもあるだろう。

「…汚れるだろう、貴様が」

 掃除をする菓子など聞いたことがない。もっとありていに言えば、感じたのは純粋な驚嘆ではなく、境界を侵されたという感覚なのだが、それは押し殺す。そういういきもの…もとい、何かなのだと自分に言い聞かせる。家主の留守にと憤っても仕方ないし、そもそもプライバシーという概念は同等のいきものの間にしか成立しないのではないか。

「目聡いね。気づかない人間も多いと聞くんだけれど」

 よく見れば、箱の内側のパラフィン紙が1層減っている。あれを前掛け代わりにしたのか。

 片目をやりつつ、買い込んだ品をしまっていく。いつもの水と蛋白質だが、今日はそれに生のセロリを追加した。夕食も同じ内容である。

「それだけかい?」

 心なしか眉をひそめた様子で東仙がいう。

 生のセロリを齧りながら、砕蜂が眉を上げる。

「暖かいものを摂ったほうがいい。スープの作り置きらしきものはさっき冷凍庫を開けたとき見えた。さっき生姜を仕舞っていただろう」

「いや、あれは週末肉を蒸すのに」

「一片摩り下ろして入れるだけでいい」

 チョコレートによる栄養指導など、初めて聞いた。どこの女性誌だ。

「そのセロリも、入れてしまいなさい。鍋の上でささがきにするだけでいい」

「…チョコに暖かくしろなぞといわれるなんぞ、本末転倒だな」

「わたしの意思ではないよ。集合の知識だ」

 さすがにヒーターに鍋をかける間は遠ざかっていた。ただ、そのアドバイスは妙にこなれたもののような気がする。

 鍋から、すこしとろみのついた液体の煮立つ音がする。

「―――貴様の記憶は、どこからある」

 昨日の言葉からすると、こうして誰かの食事に立ち会ったったことなどないと思えるのに。前身が「分かたれる前のチョコレート」だとしても同じだろう。その製造過程にこんな個人の生活の一場面が紛れ込む道理がない。

「型から外れた瞬間、かな」

 用心深く、箱の陰に座り込んだ彼が言う。

「言いたいことはわかるよ。ただ、わたしたちはそれに対する明確な解答を持たない。

 そもそも、記憶自体についていえば、菓子総体のそれとわたし一個体のそれは不可分なんだ」

 鍋の中身が煮えた。スープボウルに注ぐ。

「知の体系がある。いろんな記憶がある。けれど、それは決してわたしやわたしたちの経験ではありえないものも含んでいる」

 例えば、部下と風呂を共にする効果、とかね、と小さく付け加えた。

 それは、彼の経験ではあり得ないだろう。

「そういう記憶は、自分以外の他者の顔がみんな思い出せない。

 思い出せないというか、認識が拒否される、というのかな。わたしはそもそもひとの顔を見ることが出来ないのだけれど、声で全てを把握できる。けれど、記憶のなかで現れる誰かの発言はみな文字情報で、誰の声かという情報が抜け落ちている。誰か、は皆、名前のない”同僚”や”友人”でしかない。

 第一、経験というにはこの身に起こり得ないことも多いし」

 スープは唇に熱かった。飲み下すと胃の腑からじんわりと暖かさが立ち上る。

(おかしな話だ)

 開いてみてもその身体の中に記憶媒体も伝達組織もないただの菓子が言葉を操り、動きまわるのだ。固有の記憶や思考の坐が個体の意味ならば、ここで言葉をつむぐ彼は、一個のチョコレートという個体ではない。彼はいったい何なのだろう。あるいは

(かれは、誰だったのだろう)

 唐突に浮かんだ疑問は、そのままに投げ出される。

「ひょっとしたら、他のチョコレートはその記憶に目の前の贈り主や受け取り手の顔を当てはめられるのかもしれないね」

 そうすれば、贈り主に代わって喜びを分かち合うことができるから、と続けた言葉に、苦さが混じる。

「そんな、記憶の坐として作られたものなのかもしれないのに。わたしたちは」

 それは、自分がそうであることがかなわない、という憾みだ。それを彼は彼の欠陥だとでも言うつもりだろうか。

(そうだとしても、それは貴様の責任ではない)

 彼の役割は彼が望んで負ったものでも、彼の選択の結果、贈り主の名を失ったわけでもないだろう。彼は菓子だ、誰かの手で砕蜂の元に届けられた。

”お菓子はあなたの特別な日に彩を添える、名脇役です”

 菓子屋の陳腐な宣伝文句が浮かんだ。彼らは主役ではない、決して。悪者が斃されて大団円となる御伽噺のように、主役たちの舌の上でほどけて、それで幕引き。パーティはおしまい。

「―――ただ、ひとつだけ」

 ボウルの上に伏せた顔を上げた。東仙の、瞼が刻まれるばかりで瞳のない目がこちらを見据えている。靭い視線だと思った。

 

「ひとつだけ知っているよ。君の名だ。―――砕蜂」

 どうやって覚えたのかも分からないのだけれど。

 

「妙な話だ」

「―――まぁおそらく予約時に贈り主からそう依頼されたんだろうけど」

 東仙は箱から起きだして来た。ボウルには近寄らない。まだそれは熱い。

「君自身は、どういうものなんだ?固有の名前を持ち、固有名を持つ他者とかかわって、その流れの中で生きていく、というのは。

どう感じている?」

「さて…まだ、どうとも評価しがたいな。それに、そうやって生き続ける以外の在りかたがあるなぞ、知らなかった」

「でも、もうそれを知っているだろう?」

 言葉は真摯で、それだけになおざりな答えを返せなかった。

 生きていることに不満があるわけではない。ただ、幸せだの満足だのと言葉にするには、ひとつ胸につかえた澱が邪魔をする。

「…貴様の話だった。差出人を探すための」

 ほんの少し首を傾けて、それだけで視線は和らぐ。

「悪くない」

 東仙は断言する。

「甘やかな記憶をたゆたって、ある日かたちと名前をもらって、誰かのところへ赴く。そして役目を果たす」

 シンプルで、達成率も高い。好い生涯じゃないか。惜しむらくは、まだそれを完遂していないことだ。

「そういうわけだから、劣化する前には味わってほしい」

「貴様の『悪くない』一生が終わるぞ」

「仕方ないさ。それに、固有名詞を欠いたわたしの一生なんだから、いつかまたどこかで繰り返されることも可能だろう」

 やっぱり主体性がない。

 茶々を入れようとして、自分も同じだと思った。誰かに拾われて、捨てられて、そしてそのまま択んだわけでもない生を生きている。

(今も、誰に贈られたか分からないチョコレートに翻弄されている)

 小さな笑いが漏れた。

 

「そうだな」

 東仙はその生に期待だか満足感だかを抱いている。砕蜂と同じ、他者の手で転がされるその生に。

 ならば、自分は?