戦いが怖い、殺すことが怖い、といえば、彼はそれを許してくれた。

そのことを、俺そのものを許すことと混同してはいなかった筈だけれども。


私用だと断って東仙隊長を訪ねた。

携えていたのが、酒だったのか菓子だったのかも思い出せないけれど。腹の中に、あのひとに対する鬱屈だとか依存一歩手前の信頼だとか、そういう抱えきれないものを詰め込んでいたのは確かだった。


たくさんの話しをして、少しだけ酒盃を傾けて、障子をたてた。

予感めいたものも、策略も何もなかった。

客間ではなく、貴方の傍で寝かせてくれと、こどものように縋った。そういう風にしてしか、東仙に近づくことができない。そうやって弱さを見せることで、彼に切り捨てられる可能性も考えないではなかったけれども。

―――駄目なんですか、という言葉は切実さを含んで重くなる。

やがて小さく息を吐いて、隊長は少しく顔を伏せた。

「…いいけれど。

 ―――自分の感情の整理をつけるのに他人を使うのなら、私だけにしておきなさい」

彼はすべてを見越していた。溜息をついて許諾の言葉を発したとき、俺は喜ぶと同時に周囲の全てに嫉妬した。

このひとは、請われればこうやって己自身を開いて与えるのだろう。俺でなくとも。

(踏み込むことを拒絶する場所はけっして明かさないのに)

弁えなさい、と、常の言葉が耳の中で聞こえて、あくまでおとなしく敷布の上におさまった。

欲情するなといわれればしないでいられる、そういう犬のような従順さを俺は少し憎んでいる。

けれども、東仙隊長が何を許すのか俺は知らなかったし、甘え方も知らなかった。

ただ、戯れに腕を伸ばして痩躯を抱き込めば、わずかに身じろぎして「眠れないだろう」という声が降ってきた。

男の身体だった。自身よりは細いけれども、到底抱き包むことのできない骨格と筋肉。

(俺よりも、強いひとだからな)

おとなしく拘束を解いて、代わりに左腕を借りる。枕を頭の下に押し込めば、痺れさせることもないだろう。

「…檜佐木」

「お願いします」

本当に今日は懇願ばかりしている。

情けないけれど、それが俺らしいのかもしれない。彼が何かを拒絶するときに、律儀に理由を語るように。

男二人だから、俺の足首は質素な布団を突き抜けて畳に触れている。膝を曲げて、この人の発した熱のなかに篭ることもできるのに、いくじのないおれは、隊長に溺れ切ることができない。

確かだけれどもゆっくりした脈拍を感じながら、足の指と膝の温度差を感受する。確かにここに在る、という安心感。理解などできもしないのに、体温の分だけ近づいたと錯覚しそうになる。

女のように、このひとに恋してしまえればいいのに、とも思った。

「貴方に、幸せになってほしいです」

理解できなくて強さで到底及ばなくても、勝手に一体感を抱いて、そうすることで認められればよかったのに。現実には、そんなことできもしなくて、この弱さのせいで東仙隊長の隣という居場所を失うのかもしれない。むかし目の前で零れ落ちていった命と同じように。

もう一度、腕を伸ばして肩を抱いた。夜着越しに伝わる体温が、泣きたいほどにいとおしかった。

「誰と、だとかどんな風に、だとかどうでもいいんです。

 幸せになって欲しいし、笑っていて欲しいんです」

こどものように、こうやって請うことしかできない。


「檜佐木」

優しい声に、また力が緩みそうになる。掴んだものを手放しそうになる。

「檜佐木、こっちをみて。ちゃんと聞きなさい」

(見えもしないくせに、そうやって見つめ合っているように向かい合うんだ、このひとは)

こちらを振り向いて、髪を撫でた掌。それは檜佐木の腕をするりと抜け出たものだ。

「幸せを誰かに託しては駄目だよ。自分自身で自分を幸せにしなさい。それがお前がお前自身であることの責任だから」

頬に添えられた手は何処までも優しくて、俺を甘やかす。手を離しても傍にあるはずだと、錯覚させる。それが子供を遠ざける最良の手段だと、この人はきっと知っているのだ。東仙隊長の芯にはとてつもない厳しさがあるというのに。

(その厳しさが、せめて自分にだけは向けられなければいいのに)

幸せになることを、東仙隊長は自分自身に決して許さない。

 

祈りは、この人には届かないから。そして俺は祈る神をもたないから、必死で何かに願った。狛村隊長だとか、丘の上の墓標だとか、隊員たちだとかこの隊舎だとか。彼が慈しんでいるものたち全てに。


(どうして俺は幸せなんか要らないと言える人間じゃなかったんだろう)

彼のように。

己の幸福など擲って。他者の笑顔を踏み躙って。そうすれば、彼を理解できたかもしれないのに。

対峙する東仙はかつての姿ではなかった。印を結ぶ鈎爪も空を駆けるしなやかな体躯も、優美な動作はそのままに、獣のシルエットを描く。降り零れる霊圧は、死臭に似た不吉さを覚えさせる。

(こんなものは知らない)

あの日、払暁に目が覚めた。傍らで眠る東仙は酷く静かで、そして何かから隠れるように霊圧を落としていた。それが常の通りなのか、檜佐木を警戒しての反応だったのか、分からない。

ただ、まるで死体のように眠る身体を見つめて、許されている、という安堵に浸ったのは事実だ。理解できなくとも、傍らに在るかれが、ただなつかしかった。

もう一度、獣の眼を見つめる。かつてとは違って、それは檜佐木が東仙の姿を留めるのではなく東仙に檜佐木の姿を留めおかせるための行為だ。

獣の顎が開く。尖歯を煌かせて唇の端がつりあがる。獣の悦び。それはきっと、虚としてのつくられた性だ。そうやって他者を傷つけて傷むこころを、忘れることで彼は苦患から遠ざかったのだろうか。

(わからない)

わからないまま、かつてはこころを交わさずに懇願だけで傍に在ることができた。それが叶わない今、できることはひとつしかなかった。風死の柄を、握りなおす。

彼の生をここで断ち切って、自分の掌の上に彼を鎖すために。