「退屈なのか、サイタマ」

 「…まあな」

 

 

 

 昼下がり。廃墟になったショッピングモールの前で、足を止めたのは単なる偶然だった。

 無職で無産で彼女無しとはいっても(弟子はいる)、根っからの無芸無趣味ではない。漫画を読めば笑うし、サボテンの調子に一喜一憂したりもする(そもそもサボテンに好不調なんてほとんど現れないのだが)。カッコいいヒーローに胸を高鳴らした幼いころの記憶もある。腕を振るう機会を求めてTV報道をチェックすることも、忘れているわけじゃない。ただ、その日は、なんとなしにひたすらにヒマだった。天気がよくて、風が無くて、怪人の出そうな気配も無かった。いざとなれば携帯あるし、と(そもそもC級の彼に緊急連絡なんてめったに来ないのだが)布団を干しているジェノスを尻目に部屋を出た。

 

 

 

 ほぼ無傷、とはいっても本来ひとの出入りの激しい商業施設は無人であるというだけで荒廃の印象を強くする。あまつさえ、どこからか飛んできたぺんぺん草がアスファルトの割れ目に根を下ろしていたりする姿は、ここがすでにひとのための場所ではないと語っているようで。

 なんとなく人恋しい気持ちになったのは、その光景のせいだったかもしれない。

 だから、口笛が聞こえてきたときは思わずそこに目を凝らした。

 (…)

 サイタマでなければ、そのかすかな音も、まして屋上の端に引っかかった布巾のようなその影も捉えることはできなかっただろう。

 地上15mの高さをジャンプひとつで超えて目の前に降り立った男に、影は眉ひとつ動かさなかった。屋上の縁に危なげなく腰掛け、古びた見た目の煙草らしきものをもてあそんでいる。

 「よぉ」

 とりあえず、片手を挙げただけの挨拶に、相手はいきなり切りかかってきたりはしなかった。

 「…サイタマか」

 「おお、久しぶり。

  …えー………音速のソニック?」

 「語尾を疑問系にするな!きちんと覚えろ!お前のライバルだぞ!!」

 「…」

 (えーいやライバルとか一方的な宣言だし。)

 なんとなく声をかけてみたものの、さして親しいわけでもない相手に、そうそう会話がもつわけはない。そもそもサイタマは社会不適合のきらいがあるのだ。

 右足から左足に体重を移し変えたところで、間が保たなくなったのは同じだったらしくソニックは指に挟んだ紙巻を示した。

 「…吸うか?」

 「何ソレ、煙草か」

 「ハシーシュ」

 「はし…?なんだって?」

 小首を傾げるのは、本心から意外だからだ。知らないものは、たくさんある。

 「知らんか?大麻だが…やってみればわかるだろうが」

 「大麻て!」

 瞬間、脳裏には夕方のニュースで流れる"違法栽培"だの"密輸"だのの言葉がセンセーショナルにひらめいた。

 ―――いやいやいやいや。ないから。それは。

 「や、それは駄目だろ、人として。

  つーか、ラリってるヒーローに助けられて誰が喜ぶんだよ」

 思わず、という風に距離をとったサイタマにソニックは怯みもしなかった。

 「お前は感謝される為に、大衆を喜ばす為に"ヒーロー活動"とやらを行っているのか」

 ぴくん、と跳ね上げられた眉に小馬鹿にした様子をみてとって舌打ちをする。思えば、この男はそんな表情ばかりをしている。

 忍者というのは存外に表情豊かだ、という認識に至ったのは、こんな存在が傍にあるからだ。

( 忍者って無表情っつーか鉄面皮っつーか、もっとこう、ビシッとしたのじゃないのかよ。こう『任務完了』とかってニヒルに決めるみたいな)

 にたにたとやたらに嬉しそうにするのは、勝手に優位を取った気分になっているからだ。ひっくり返される分、その悔しさは倍増するだけだろうに、この忍者はサイタマの前で調子に乗るのをやめようとしない。

 「…ちげーけど」

 先の質問を思い出して、返す。サイタマがヒーロー活動に勤しむのは、決して誰かのため、あるいは誰かに歓迎される自分のためではない。

 「駄目なもんは駄目なんだよ」

 考えることは苦手だ。まして説得なんてものは生まれたときから苦手で、目の前の男を説き伏せることなんて勿論できる気がしない。

サイタマのどこをひっくり返しても理論武装された倫理なんて出てこなくて、自然言われるに任せることになる。

 「お前が使い古された道徳なんぞに囚われてるとはな」

 満面の笑みでこれ見よがしに火をつけてみせる。

 「言っておくが別に大した害があるようなもんでもないぞ。快楽が諸悪の根源だと思ってる石頭どもの妄想だ。俺たちの仕事では古来使われてきたしな」

 言葉での果し合いと違って、拳での戦いはシンプルだ。強いほうが勝つし、結果が目に見える。総じて言えば、頭を使わなくていい。ソニックも、そういうシンプルさを好む男だと思ったのだが。

 「…吸わなくても損しねーし」

 目の前のぴんぴんした男が常用しているらしいのだからたいした害はないのだろうが、サイタマの中でそれは"なんとなくやっちゃいかん物"に分類される。黒か白か、曖昧ではあっても境界があって、サイタマはその境界を踏み越えてくる厄介事に抵抗するために自分を鍛えた。

 ソニックの行為はサイタマの選択の埒外にあるものだ。

 「―――だが、その道徳観を砕いてやるのも面白いかも知れんな」

 ソニックが大儀気に立ち上がった。その実、唇は堪えきれずに歪んでいる。

 (また何かやらかす気だコイツ)

 つやめいた唇は、指に導かれた紙巻を含んで、その煙をとらえた。多分、口腔に満ちた煙は肺に及んでその悦楽を弾けさせるのだろう。煙草も吸わないサイタマはその感覚を知らない。経験がないわけではないが、トレーニングの3年のうちに不健康といわれるすべての生活習慣から遠ざかった。舌に残る煙のざらつきなど、忘れて久しい。

 そんなことを考えていたら、ソニックが跳んだ。

 (何やらかすかね、今度は)

 着地点はサイタマのほんの目前、手を伸ばせば触れられる位置と見た。否、読みよりも近いそれはまるで腕の中に納まりそうなほど。

 (近い近い)

 ヒーローを称するぐらいだから、害意のない人間をむやみに攻撃するわけには行かない。例えそれがストーカー忍者であっても、だ。(出会い頭に手ひどいダメージを与えてしまった覚えもあるが、アレはモノのはずみというやつだ)

 細い顎と鼻梁に次いで視界を覆う黒髪に、思わず腰が反る。が、追いすがるソニックがパーカーの端をつかみ、―――半開きのサイタマの口に、煙を吹き込んだ。

 

 めごっ。

 

 「何しやがるてめー…」

 言葉は黒髪を屋上のコンクリートに叩き込んだ後に出てきた。返事はない。指の先が痙攣するばかりだ。

 長袖の裾で唇を拭いながら、踵を返す。

 反射的に相手を叩きのめしたから、粘膜に味もいがらっぽさはない。ほとんど吸っていないのだろう。だが

 (他にやりようがあんだろ、あのバカ)

 かすかに触れた唇が、その感触を残しているだなどと。とんでもないやり口を択んだ残念忍者にも、害意がないことに油断して反応が遅れた自分にも。腹が立つ。

 (いや煙は吸ってねーけど)

 だからチャラ、と割り切れるほど裁けた性格はしていない。煙を挟まない触れ合いはまるで、

 「…クソッ」

 まるであれはサイタマの知る、

 「あーもー忘れる!」

 まるでその行為が口付けのようだったなどと。