軍靴が当たった澎湃の、その顔が泣き出しそうに歪んでいたことを覚えている。そして、涵陝のちぎれた傷口で血管がたてるごぼごぼという音も、爆風で土に塗れた腕や足も。

 一人なりと、逃げてくれと祈った。軍兵の一人ひとり、その誰もが砕蜂の血肉であり、こころだった。誰が欠けても砕蜂は耐え切れない痛みに苦しむし、削られれば削られた分だけ砕蜂の命も失われていくのだ。

 無線機も沈黙して久しい。もはや行く先など、なかった。発見されて、撃たれたその場が死に場所だ。あれだけの命が喪われた後とあっては。昏朦のなか、たくさんの人影が脳裏を過ぎった。そのどれもがとりとめもなく、その意味をつかめぬままに漂う。

 "―――モルヒネがあれば、足が吹っ飛んでも血塗れの付け根で歩くことだってできる"

 ふとした瞬間に、その言葉を思い出したのは、まさに今そうすることが必要だからだ。その言葉に爪を立て、引き掴んで意識を取り戻そうとした。

 "君と同じく、モルヒネが要ったよ。足を失くしたからね"

 同じように、そういえば、東仙も四肢を失った。彼は死んだけれども。

 だからこれは夢だ。彼になぞらえてこの苦患から逃げようとしているだけだ。―――そう思うのに、意識は砕蜂の意思を離れて懐かしい声に寄った。けれども、彼の声は昔聞いた言葉を繰り返す。

 (当たり前だ。彼は死んだのだから。わたしが知らぬ言葉を吐くはずがない)

 これは、砕蜂の脳裏に映る幻影に過ぎない。  

 

 

 「幼い頃、わたしは常に跣だったから」

 あし、という言葉にひきずられてそんな言葉が思い出された。

 「暑いところだったよ。こちらとは違う、陽の光が肌を刺すような」

 風は、大地は乾き、舞い上がる砂礫が肌をなぶる。欠けたまま鋭利な断面を晒した石榑は、歩む踝に傷をつくる。岩陰に卑屈にはびこる潅木は硬い角皮に包まれた葉をすらかくして棘を纏う。 そのすべてを覆うのが、苛烈な陽光。砕蜂は東仙の記憶を膚に感じる。照りつける陽光に、剥き出しの肩がひりついて痛んだ。

 せせらぎの涼やかな音、小鳥の交わすさえずりとてなく。耳を圧するのは、ただ暴力的な風だ。たまさか、うつむけた顎を上げれば疲労に喘いだ喉に砂が噴きこまれる。それにもまして肌を炙る光に容赦はなく、盲いた目にもこの身を涸らす苛烈さの根源は感じられた。 死、は飢えでも他者でもなく、ただひたすらにその身を炙る太陽と、それによってもたらされる渇きだった。

 (どういう心持だろうか)

 ―――自分自身がそれと知覚することができない存在に、命を支配されていると感じるのは。眩しさや煌きや、光をはじく万象を知る砕蜂と違って、彼はそれ自体を感知できない。ただ、自己の死はそれに因するものに他ならないとしっている。

 砕は、見たこともない彼の故郷を思う。天地の境に雲という薄布はなく、天上におわす神の目に、地上にあってひとは裸で晒される。そこには対峙する彼我などなく、ただ容赦のない呵責とそれに呼応する痛みしかあり得ないのではないか。世界は畏怖とそれ以外によって峻別され、その身を貫く光だけが絶対的な力と呼びうるものだ。敬い心を捧げても、次の瞬間に苛烈な光は肌を焼き、捧げた供物は干からびていく。そんな神にたいして何を望めるというのか。

 「雲が流れる、と教えてくれた人があったから」

 東仙が空を指した。陽が翳る。熱が和らぎ、冷たい風が流れる。恩恵のようなそれに、命を吹き返す気がした、と死人が笑う。誰かと手をとりあって、雲が好きだと語らう、そんな瞬間が彼にはあったのだ。

 差し上げた手を下ろした。それは、風の間をなぞるような音楽的な仕草だった。

 「ここは、いつも雲がたゆたっているというね」

 手を伸ばしてもこごめても、常に柔かな水の気配がある、と、飼い猫を語る口調でいう。雲、霞、霄、靄、霧、靆、靉、と数え上げる彼は、それを誰かに教えたかったのだろうと思う。今更に、それに思い至った。

 雲といい霧といい、それはこの地では絶えずそこにある。陽を浴びては傷を膿ませ、陰にあっては荷に重くのしかかる。火薬は粘りついてその用を果たさない。かわりに、地は肥え禽獣の声には暇がない。溽暑の地で、それは枷であり、恵みでもある。生き物は猛け繁り、合い食み、大きなものは小さなものを呑んで、死んでは小さなものに吸われて解ける。水は命を嘉し、群れ集って賑々しくながれる。

 貴様の足は、静かに腐っていったぞ、とふと思い出して口にした。

 干からびることもなく、土に溶けて虫に食まれることもなく。瓦礫だらけの場所だが、いつかはこの地に溶けるのだろうか。

 「彼女の死体は、からからに乾いて、永く残ったというよ」

 岩だらけの地で、墓孔は浅い。ある日の砲撃で、墓地は崩され幾多の遺骸が露出した。相好の変わったそれらは、それでも人別を判じられた、と誰かが伝えた。蹂躙する大きな力に、屈しないのは失うものを持たない死者ばかりだ。砕蜂は痛ましさに顔をゆがめる。生者は神のその視線に、頭を垂れるしかない。正しさは、徳であるまえにその世界を支配する摂理だった。その力を法というのなら、彼の身をつらぬいて動かすのは正義でしかないだろう。

 顕れた正しさは、顕れず残らなかった正しさに対して、それが顕れ残されたという事実を以て保証される。

 

 「―――だから、藍染についたのか」

 彼の故国でも、砕蜂の側でもない、彼が間諜と疑われた"敵"の名を口にする。意味はない。ただ、この身をおくその現実を逃れるよすがに彼がなればいい、という砕蜂の希求が漏れたものに過ぎない。とりとめのない昏迷にある砕蜂の。

 無論、幻は幻だ。ついぞ"自白"に至らなかった男は、夢の中でも首を傾げただけだった。

 「虻が、」

 こちらではなんというのかな、と唇を鳴らしては音を真似て見せた。耳障りな音を立てて、飛び回る貪欲な害虫。

 「素足にね、傷がつくんだ。石くれや木片や、鞭で。

 血が流れる。するとすぐに寄ってきて」

 傷口に集るのだ。そうして、血液や、漿を飲む。こちらでは、水浴びの際に皮膚を食い破ってそれらを啜ることもある。

  かの地では、強者は弱者を生かしてその働きによって肥え太る。弱者は、他者の傷に集って生きていく。それしかない。強者の翼の下から逃れれば明日の糧を得られず、誰かにより縋れば誰かを傷つけずにはいられない。払っても払っても、あるいは寄り来るそれを殺しても、無数の羽虫は後を絶たない。優しい手が、傷ついた脛を清めて布で覆ってくれるまで。無数の虫たちは音源を近く遠く霞ませて、彼にそれを追い難くする。祭壇に捧げられた果実にも、路傍の乾ききらない屍骸にも湧き出して。―――私の兵の遺体もあれらは食らうだろうか。

 「彼奴等が死ぬ必要など、なかったというのに」

 死ななければ、戦わなければよかったんだ、と彼はいつものように口にした。君たちの敵は、わたしには見えない。知らない。他を圧倒する、絶対的な正義さえ認めればよかったんだ。否、認めずともいずれは蹂躙されてしまうよ。路傍の乾いた屍骸のように。

 砕蜂はそんなにまでも圧倒的な他者を知らない。

 完膚なきまでの敗北は、ただ一人に対してだけのもので、他にはいつも己が他者を凌駕する余地がどこかにあった。ましてその敗北―――崇敬は望んで得たもので、己を弄玩する神の手には気まぐれな慈愛があった。

 「―――だから、わたしは、二つのものしか知らない」

 彼の声に苦しさが滲んだように聞こえたのは、砕蜂がそう願ったからだ。彼に擬して、世界にたいして慈悲を願った。部下たちが死なぬように、あるいは彼らが傷つくのなら世界が同じだけ傷つけばいい、と。

 「天にあって、わたしを射るあの視線と」

 幻影に過ぎない声は、雲間に差す陽光になって砕蜂の目を射た。

 「地にあって、わたしに語りかけてくるやさしい声と」

 痛みを忘れたような言葉に、嘘だ、と声にならぬ声で叫べば、東仙自身の声が被さった。

 "地にあって、わたしの手を濡らす暖かな血と"

 陽光が広がる。脳裏を灼く強さで太さを増すそれは、瞬きひとつの間に砕蜂の視覚を奪った。 

 「その声を守りたいと思うのはおかしいだろうか」

 遠ざかる声に、咄嗟に左腕を伸ばそうとして、そこに何もないことに気づく。

 わたしにも守りたいものがあるのだ、という叫びは声にならぬまま、意識は光に溶けた。

 

 

  

 覚醒は、激烈な灼熱感とともに訪れた。喘いで見開いた目の先、眩しさは幻覚そのまま。しかしそれは陽光ではない。

 「気がつかれましたか」

 周囲は黒土の山肌ではない。光の穴の開いた視野、漸う焦点が合えば見覚えのない衛生車両の狭い車内が映る。強烈な耳鳴りの向こう、衛生兵が走り出る気配がする。

 「あなたの身体には応急処置しか施しておりません。手術が終わるまでお休み頂くのが本来ですが、」

 説明のために近寄った軍医に見覚えがない。失血で鈍る意識のまま、徽章を捉えた。

 「貴方の軍と我らの上官がご回答を待っておりますので」

 術衣の胸に光るそれは、紛れもなく敵のもの。

 慄然として咄嗟に身を浮かそうとしたところを、ままならない体は起き上がることなくよろめいた。否、右手がストレッチャーに繋がれている。

 「くれぐれも、無理な動きはお控えください」

 貴方は重傷者です。このまま薬が切れればショックもしくはしっけつによってしにいたりますし、くすりをとうよしつづけてもいっぽあやまればくうきそくせんもしくははいけつしょうによっておなじけっかがもらされるはずですおまかせいただけさえすればちりょうはわがぐんさいこうのぎじゅつをもっておこない、かつてのししいじょうのせいのうをもったぎしをえることがかのうになります

 軍医の言葉は、赤い靄に霞む砕蜂には理解が及ばずに、ただ通り過ぎていく。ただ、最後に軍医が母国語で付け加えた言葉が耳に残った。

 「貴方はその結果を、すぐに目の当たりにすることでしょう」

 外は冷えます、と至極慇懃に差し出された軍の刻印入りの外衣を、砕蜂は断った。白い術衣に、汚れた軍服の下衣。ただの惨めな女に見えるだろう。軍服のない己は、皮膚を剥ぎ取られた以上に寒々しい、と思った。

 異様に背の低い男が、杖代わりに砕蜂の横に立った。

 促されるまま、車を降りる。それだけのことに、息が上がり、眩暈がする。眼裏を穿つ光は、一拍おいてみれば常と変わらぬ霞んだ太陽で、しかもそれも暮れかかっていた。促されるままにその場に引き出される。眼に映ったそれに、唇が震えた。

 けぶる視線の先、種々の拘束をうけた部下たちが居並ぶ。その数、百に満たない。残りは逃れたか引き立てられぬほどに傷ついたか、それとも。

 (捕らわれた…………!)

 膝を突き、あるいは負傷に耐え切れずに身体を落としあるいは拘束具と突きつけられた銃に身を伏せる兵たちが。兵器は失われ、部隊は崩壊、長ともども構成員は捕縛。完膚なきまでに敗れ去った部隊がそこにはあった。

 『軍団長…!』

 食い入るような眼が、砕蜂の姿を捉えた瞬間、誰しもが押し殺した叫びを上げた。それは漣のように広がり、やがて地を揺るがす呻きとも喚声ともつかない溜息に変わった。

 (すまない…!)

 兵士たちのその表情に、声に、胸を突かれた。胸に凝った昂ぶりは、瞳の前に幕となって湧きあがる。視界が揺らいだ。

 「―――申し訳ないが、それは後にして頂こう。まだ君たちの再会が公的なかたちをとったわけではない」

 横合いからの声に、涙が凍りついた。

 (――莫迦な、)

 聞き慣れた声。振り向いたその眼に映る、褐色の肌。几帳面に伸びた痩躯と、その身になじんだ軍服。

 「東仙!!」

 

 

 

 

 「まずはおめでとう、と言うよ。目覚めてこの場に在ることに」

 記憶のままの穏やかな口調に、酷薄さが混じるのは僻目だろうか。見知ったままの彼は、しかし敵軍の軍服を着、かの軍の兵たちに傅かれて在る。

 「そんなはず…」

 ない、と紡ごうとした言葉が、生きているはずがない、というのか、敵であるはずがない、という否定なのか砕蜂自身にも分からない。

 「そう、信じがたいことだろうが、わたしは此処に生きている。そして初めから藍染様の陣営にいた」

 彼は、党の憲兵隊に捕らえられ、一度も自白しなかった。その身には何も持たなかった。

 「莫迦な、貴様は足を―――」

 「そう、足はそちらに残してきたのだったね。よもや君の眼に留まるとは思わなかったが―――わたし自身、自軍が投下した炸裂弾の破片で傷を負うとは滑稽な話だったよ。千切れかけたそれを棄ててくるのに、銃弾と薬を随分使ってしまった。最後には君たちの劣悪な鎮痛剤までね」

 "―――モルヒネがあれば、足が吹っ飛んでも血塗れの付け根で歩くことだってできる"

 瓦礫の間に散らばった精製モルヒネのアンプル。

 そう、たしかに。現に今、砕蜂がその恩恵を蒙っている。かろうじてではあるが、ともかくもこの場に立って、呼吸している。よもや実際に剥き出しの骨を突いてあゆみはしなかったろうが、彼もあの爆撃に乗じて街を脱出した。そして、彼の在るべき場所へ帰った。

 呆然とした身体を、引かれるままに壇上の椅子に落とした。右手の手錠は、その背に繋がれる。砕蜂は動けない。これは、断罪の椅子だ。

 「君たちの、身体機能は精神力とともに鍛えれば鍛えるほど高まる、という妄信には、しかもある程度それを実現してしまうところにうんざりする。けれど、それゆえに、身体加工にまったく疑いを関心を示さないのは助かった」

 だからその身に外科的な整形や改造を施すことをひどく厭う。この地には、人間離れした身体技能を持つものが多くいるが、それらはなべて生来の才と異常な鍛錬の結果だ。砕蜂もその端に連なる。

 けれど、東仙の言葉を借りるならば、その技術によって彼らは砕蜂たちを凌駕したのだ。

 たとえば、これは尋問官の関心をまったくひかなかったね、と用を成さないはずの眼球をなでた。それは見る間に潤んで、雫が頬を伝う。涙ではない。眼球自体が何かを滲出させ溢したのだ。

 「あのとき用いていたのはフェンタニル。部位に吸収させれば即効性の鎮痛作用を得られる。モルヒネよりも早い」

 自白を得られなかったのは、憲兵隊。東仙を拘置所から出したのは、

 「ともかくもそういった仕掛けでわたしは同胞に会うまでの間を乗り切った。あるいは、貴軍の古拙な拷問をも」

 砕蜂に他ならない――――― 

  「言い遅れてすまないが、勿論わたしは独りではなかった」

 懐かしい所作で、傍らの白衣の兵士を指し示す。見知った顔を見つけて、愕然とした砕蜂から、幾人かは眼を逸らした。

 「街中の同胞と、あれほどに容易く連絡が取れたのは君のお陰だ」

 「な、に……」

 彼は常に音を奏でていた。彼が出歩くようになってから、彼がオルガンを奏でるようになってから、市民は楽しげに歌い交わすようになった。楽の音は絶えず響いていた。あの中に情報を紛れさせたとして、それを許したのは、

 (わたしだ――――)

 嘘だという拒絶は形を成さない。

 思えば、疑わしい点はいくらでもあった。彼の出自にせよ、言動にせよ、あるいは妙に執拗で決定力に欠ける爆撃にせよ。あれは、混乱に乗じて内通者と連絡するためのものだったのではないか。

 後悔を上回る猛烈な吐き気に、砕蜂は顔を背けた。せり上がる嘔吐感に顔を覆いたかったが右手の拘束がそれを許さない。吐寫の衝動だけが肩を震わせ、しかしなにも零れなかった。砕蜂にとっての事実がそうであるように。なにも拒絶しうるものはない。

 正面には、砕蜂の兵たちがいる。どう向き直ればいいというのか。揺れる肩を、先の佝僂が引き立てた。

 「…その足、は」

 砕蜂の震える声に頓着せず、東仙は右足を上げて脛を弾いてみせた。硬い音に、複雑な響きが混じる。次いで頬の雫を払った指で、無造作に立ち並ぶ白衣の兵を示した。―――破面。

 「この通り。戻ってすぐに義肢を接いだよ。

 わたしの同胞も、同じく強さを得るための技能特性を、多くは義肢に拠っている」

 答えを返せない砕蜂に、兵士らには説明したけれども、と前置いて東仙は続ける。

 「本当は夜襲をかけたかった。夜陰に紛れれば、犠牲はもっと少なくて済んだはずだ。けれども、君たちの行軍が予想以上に早かった。山に入られてしまっては、互いの損傷が大きくなる」

 宵闇を待てば、まだしも穏便に制圧されたというのか。そんなものは欺瞞だ。抵抗しなければ、傷を負うこともないと、そういう類の。

 「戦いなど本当は必要ないんだ。過つことさえ、しなければ」

 かつて語った、その通りに。正義はこちらにある、と。その証明のためだけに、血はながれたのだとくわえた。そのために、武器をとるのだと。かつてと変わらぬ優しい声だと思い、思った己を引き裂きたいと思った。

 

 「さて」

 東仙がもう一度声を改めた。佝僂が、額の汗をぬぐう振りで傾いだ首を立て直す。髪の間から、兵たちと視線がかち合った。絶望を、そこに読み取る。彼らの信奉した軍団長は、身のうちに敵を養っていた。あるいはそれに気づけぬほどに無能だった。

 「君の部隊を、此方の陣営に迎え入れたい」

 「なに、を…」

 「腐敗しきった党という集団のなかで、巧くやっていると思ったよ。君のつくった隊列には敬意を表する。彼らは、そのまま此方に移ったとしても精鋭と呼ぶに足りるだろう。

 ただそれは、君への個人崇拝に根ざしたものに過ぎない」

 淡々と言葉を紡ぐさまは、かつて砕蜂の部屋でオルガンの調律の手順について説明したときそのままだった。そうだと、今更に思い至った。

 「だから、君ごと迎え入れようと言うんだ」

 彼にあるのは狂気ではない。砕蜂が狂気と呼びたかったものではあるけれど、それは初めからかれのなかに敢然と存在したものだった。見抜けなかった己がいただけで。

 「―――ばかな、身の内に造反分子を飼うつもりか」

 「君たちは君たちのいう志を変えないだろうからね。ただ、それは私たちも同じだ」

 優雅に。 空に向かう東仙の腕にしたがって、整列する敵兵が一斉に銃口を上げた。

 「止めろ―――!」

 奇妙なほど、乾いた音が響く。 絶叫をかき消して、8mm弾は、端の負傷兵たちの装備を容易く貫いた。体が、銃弾の衝撃で地に跳ねる。遅れて届くのは、黒い軍服の兵士の体がくずおれた音。 やめろ、殺すな何故そんな意味のない死をわたしの部下にやめてくれ頼む―――

 「東仙!!」

 鉛玉に蹂躙された彼らの心臓が、主の代わりに叫びのような血を吐く。骸を離れた血液は、滂沱と流れ落ち、荒れた大地に染みをつくる。それだけが、残る。彼らの生きた証しを、こんなもので終わらせていいはずがない。

 「―――さて、君の部下はまだいる。ありきたりの手法で申し訳無いが、彼らを生かすのは君だ」

 「貴様……っ、よくもぬけぬけと」

 砕蜂の身体は手錠によって留められた。繋がれた小さな手は、何も救うことが出来ない。

 殺すがいいという叫びは押し留める。兵たちの助命を請う先は、彼しかいない。

 「……これ、以上の殺傷は…無意味だ。責はわたしが負う。俘虜として貴軍の軍規にも従わせよう」

 戦え、その命は己が負う、と誓ったその唇で、その言葉を吐くのは苦しかった。しかし、行く末には屠殺に等しいまでの無意味な死しかない。彼らにそんなものを与えることはできない。

 けれど、東仙は砕蜂の言葉を黙殺した。

 「山中には、君の軍の遺骸がある。限られた時間だが、埋葬の許可も与えよう。その後に、兵卒諸氏には後方で再度訓練に従事してもらう。君たち幹部には少し付き合ってもらうけれども」

 つまりは情報を吸い上げると。―――ふざけるな、という血の沸きあがる思いは、続けられた言葉に一瞬で冷やされた。

 「でなければ遺骸は放置するしかない。貴軍に俘虜の概念がないのはとうに知っているから、交渉の俎上にも載らない。…俘虜交換が可能であれば、遺骸も丁重に扱ったし、兵たちも俘虜としてそのままの身柄を扱えたのだけれど」

 残念だよ、と瞼を伏せて思い出のままの穏やかな顔を見せた。

 確かに、黒軍には俘虜待遇の規定がない。東仙からして、俘虜取り扱いの規定が両軍の間に確固と定められてさえいれば、そして彼がその所属を明らかにしてさえいたならば、むやみな拷問にはさらされなかったはずだ。だが、党則でも両軍の折衝でもそんな些事には触れられなかった。それは戦闘が戦士のものであり、生命のやり取りそのものであるがためにいずれかの死を以て完了しるものという軍兵の職業観念、また党と敵との戦争終結は"教化"の完了を以てなされるという党の思想背景から来るもので、実質的にも生存者は極端に少なかった。―――これまでは。

 しかし、現にここに生存兵がいる。砕蜂の血肉に等しい部下が。

 戦争状態において、党の上層部は囚われた兵士を救う術を持たない――――どうあがいても、我ら自身の法が砕蜂を縛る。彼らの死を負う、という砕蜂言葉さえ、彼らの喉元を縛って彼ら自身の助命の声をおし留めている。

 奥歯を噛締めて、砕蜂は声をあげた。

 「繰り返して請う。軍兵には戦闘の遂行責任はない。解放もしくは遵義後方へ引き渡してくれ。

 交渉はわたしが行う。賠償は貴軍の要求に従う―――無論、引渡し完了時点で軍団長砕蜂は貴下の軍事法廷ないし処刑台に立つ」

 「残念極まりないが、繰り返すよ。交渉の駒にもならず、統率も取れない烏合の衆となった兵卒ごとき、残すに値しない」

 もう一度、腕が上がった。

 

 『――――――――――――――――――――――!!!』

 

 

 二度目の絶叫は、先ほどのそれよりも大きかった。生き残ったものたちの絶叫が、砕蜂のそれに和したために。固定されていない椅子が、砕蜂の身体に連なって激しく跳ねるのを、佝僂は渾身の力で抑えねばならなかった。涙に歪んだ視界の中で、半身を包帯で包んだ銘鏤が立ち上がり、そうして銃剣に貫かれる様を見た。膝から崩れ落ちる彼の、目線は砕蜂をたしかに捉える。視線が合ったと、思った。

 「…………もとより、選択肢は二つしかない」

 喉が嗄れるまでの絶叫を聞き終えて、なお表情を動かさない。

 「死ぬことで、君は意思を貫いたという極めてシンプルな永続性を得る。 それは崇めるのに適した記号だと、知っているだろう?それを、愚者が神と呼ぶとも。 愚者がそれに倣おうとする理由はただ一つ。それが理解するに容易なほどシンプルだからだ。 君は愚かな崇拝者を生み出し、そしてその場で殺すために此処で矮小な神になるのか。それとも―――」

 「我が軍に対する愚劣は許さん!」

 「それとも、生き難い苦難の道を彼らとともに歩み、殉教者としてその生を終えるのか。君は彼らの生に殉じることができる。彼らもまた然り。

 勿論許さずとも構わない。 ―――しかし、だからといって何ができる? 君を崇める蛮勇のものたちとともに此処で終わるか、 より大きな目的のために力を尽くすか。そのいずれかしか無いんだ」

 東仙は悼みをその口調に滲ませる。他者を、あるいは他者に投影したうつくしいままの己を生かす術を持たなかったのは彼も同じだ。陽光に炙られて、彼もまた誰かを喪った。

 砕蜂は砕蜂の兵を生かすことができる。何を措いても、そうしたかった。何を喪っても。

 (奴等以上に、守るべきものなどあるものか)  

 「…彼らにとっては、むしろ本望ではないのかな。 裏切りという汚名を着てなお、君へ忠誠を捧げたと。君への個人崇拝を純化し、そのその過程の苦難を以て達成の偉容を飾ることができる」

 「何を…… 我らを狂信者と愚弄するか」

 抗議は力を失った。東仙は続ける。

 「……君が神に裏切られたとき、君は神を呪っただろうか。

 いや、激しく呪詛し唾棄すると同じだけ、神が離反した世界を呪い、神と同じ汚辱の淵に沈むことを希求し、そうなれなかった己にむしろ殺意を覚えただろう?」

 

 『何故わたしを連れていって下さらなかったのですか……っ』

 

 

 

 

 ―――ともに在ることさえ叶えば、得た居場所も知己も力も命も、全てを擲って構わなかった。

  

 

 

 

 

 「彼らに」

 彼らの苦しみと、東仙の苦しみと、砕蜂は二つながらに知っている。彼らとそれを分かち合っている。

 「同じ苦しみを与えるのか?」

 問いかけはむしろ優しく、糾弾よりも慰労の色を滲ませる。

 「砕蜂、」

 東仙が、もう一度、真摯に名を呼んだ。東仙を救った誰かは、死んだ。だから東仙は生きていられる。砕蜂にはそれができない。彼の人は変節し、そしてすべてを汚した。

 汚辱にまみれて、それでもともに在りたいと思えるだろうか。己はそう希った。全てに。ちがう。わたしは、あの光に堕ちて欲しくなかった。立ち塞がるものであって欲しくなかった。あの光こそが世界そのものだったから。世界はかつて変節した。その世界を憎悪して、蜂の巣に擬えられる最強の軍団をつくった。それが砕蜂の全てだ。

 あちらにつけば、友軍も党官僚もこれまで守ろうとしてきた市民も殺すことになるだろう。内側の軍機構を知る砕蜂がいれば、党の喉元に刃を突きつけることが出来る。友を殺せ、と命ずることになるし、兵にはそれが出来る。彼等は兵だ。

 ―――それで?

 

 今ここに、東仙は砕を彼女の兵とともに捕らえた。そしてその幾たりかを屠った。そして砕蜂にその屈辱をそそぐ術はない。命を救うことは出来る。けれど、己を苛んだ腕にすがって、それは生き延びたと言えるのだろうか。施しは強者が弱者に垂らす慈悲で、その恵みに寄った瞬間砕蜂はその牙の所有権を失う。この軍旗に、弱者としての立場を刻印されてしまう。

 それは、死なせた兵の生への、そして斥候二隊のように、砕蜂に従うときめた兵たちへの裏切りに他ならない。

 

 裏切りに会って後、砕蜂にはあの煕光だけを信じて生きていくことができなかった。死の一瞬で固定された正しさを、前にして絶句するしかない圧倒的な力を、砕蜂は知らない。ましてや生きて

 「そんなものに、わたしは、なりえない……」

 道連れにする2千の兵の怨嗟を受け止めて、反証して彼らの死に意味を与えるために、あるいは彼らの信じた生を濁らせぬままに。兵たちは死のその瞬間まで汚れなくあった。すべての咎は砕蜂にある、と誰かが砕蜂を糾弾するためには、この瞬間を固定されなければならなかった。

 でなければ、砕蜂と兵は互いに互いを見交わすたびに、すべてを裏切った己としかし裏切りにより生き抜いた己を思い出さなければならなくなる。鏡の中の醜い自分のように、離れられない厭う影を引き連れて残りの生を歩まねばならなくなる。

 

 

 「砕蜂、回答 を」

 

 (答えは、)

 受け入れられない。受け入れていいはずがない。

 刹那、砕蜂は弾丸になった。 留めようとした佝僂の腕力で、手首は折れ、皮肉を削って手錠は抜けた。膝をバネに、掛けた姿勢から跳躍まで一歩。着いた左足を軸に東仙の喉笛を狙って蹴りを放つ。 右足を義肢に替えた不自由さが、刹那の遅れを生む。 視界の端に筒先を上げる敵兵たちを留めながら、折れよとひねった上半身に追い縋り、回転の勢いのまま喉笛に喰らいつく―― 世界は、砲声でとざされた。

 

 砕蜂に駆け寄ろうとした無腰の兵たちと、それを留めようとした破面たちと。

 はじめから勝敗は明らかだった。 破面の銃弾は、黒い軍服を蹂躙した。不安定な姿勢で撃たれた彼らは、踊るように四肢をはためかせ、ただ、視線だけを砕蜂に縫いとめたまま――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 銃声は、胸から溢れる血の音に圧されて届かなかった。

 「心配要らないよ」

 砕蜂の眼には、その姿はもはや黒い影としか映らない。ただ、声だけはかつて歌い笑ったそれに違うところのない、東仙の声だった。

 「私たちの神は、慈悲深い」

 山の端にかかった、最後の陽光が砕蜂の眼を貫いた。