男と別れた。

こういうとき、たいがいの女たちの行動は決まっている、という。泣くか、怒るか、女友達と語り合うか。類型化されたそれは、しばしば語り草になる。



そしてその定型のひとつに、いつのまにか部屋に溜まった相手の私物を片付ける、という行動がある。枕カバーだとかマグカップだとか。人から見れば他愛ない小物を、躍起になって捨てる姿は、例えば贈られた指輪を捨てるのとは少し違って、見るものの笑いを誘う。

それはかつて愛した相手との決別というよりも、自己を取り戻すための儀式だ。

他者から見ればそこにはたいした違いはなくて、だから傍らに誰かがいたときとそうでないときの連続性を断とうとする試みはいつも、ほんの少しだけ滑稽だ。

 

砕蜂も、ご他聞に漏れずその少しだけ滑稽な振る舞いを選んでいた。

ただ、その無意味さとやるせなさに自嘲するよりも先に、自己の決定は決定として頑として決行に向かうところが、砕蜂の砕蜂たる所以であった。

だから、その手に香辛料の瓶を持って厳然とキッチンの整理に勤しんでいる。

 

棚に一揃いの香辛料。

それが、東仙という男の残したものだった。

"…入れすぎではないのか"

"美味しいよ?砕蜂もほら"

"要らん"

人一倍感覚に優れ、ことに視覚で異常を感知することができないのだから口にするものの香味には敏感であるはずなのに、砕蜂が呆れるほどの薬味やら香辛料やらを注ぎ込むのだ、東仙は。

 

口にはしないものの、砕蜂が見る限り、彼は常に周囲に聴覚と嗅覚の網を張り巡らせていたし、それに抵触した者に侵入を許さない程度の神経質さは具えていたはずだ。なのに、砕蜂の部屋で、彼は洗髪料や布には頓着しなかった。

いいのか、と初めて男を泊めるときに、奇妙に思えて砕蜂は尋ねた。その程度には相手のことを理解していたから。

対する東仙は"構わないんだ"と、簡潔に 答えた。

そもそも砕蜂とて、殊更にフローラルだのムスク某だのと強い香料を含んだものを用いているわけではない。ただ、東仙の前に立つと、無香とはこういうものかと改めて思わされるのだ。自分を取り巻く空気が、ひどく湿って粘膜に重いように感じられる。そんな人間にはそれなりの素材を与えねばならないのではないかと、ひそかに思い巡らせたりもしたのだが。結局、別の一揃いを買うこともなく、今に至った。ひとつには、自分のためではない洗髪料の群が、男を待ちわびているようで疎ましかったせいもある。そういう詰まらない拘泥を、さりげなくかわして踏みこんでくる。そういう意味で彼はまことに都合のいい男だった。

 

ただ、そんな風だったから、食事のときに口にする言葉が記憶に残った。

ナツメグが欲しいね、だとか、レモンよりもレモングラスを使ったほうが、エッジが立つよ、とか。

殊更に欲しがる訳でも、まして調理の腕やセンスを批判するわけでもなく。そう言えば、彼とて料理の腕はかなりのものだったというのに、砕蜂の元を訪れたときには滅多にキッチンに立つことがなかった。勝手の違う場所は使い辛いのだろうと、そのときは思ったものだが、もしかすると求めるものが手に入らない不自由さを疎んだのかもしれない。

 

そんなことを思い起こしながら、棚と冷蔵庫の小瓶と小箱を洗いざらいゴミ袋に落とし込んでいく。

男の部屋にはさらに、小さな鉢があってそのいくつかは所謂フレッシュハーブだったはずだ。それが、主をなくしてどうなったか知らない。もうあの部屋を訪ねることもないだろう。

彼と会うまで、砕蜂は葉を食べるマスタードがあるなど知りもしなかったし、卵料理に合う香味野菜は何かなどと考えることもなかった。

これからも、そうだろう。

合鍵も渡していなかった男との別れは、こんな風にしてしか始末をつけることができない。

 

溜息ひとつを最後に、袋の口を縛った。




対して見栄えのしない、よくある別れの後日談

       (但しそれが彼でなければ)