たつ鳥跡を濁さず、という。

あれはそういうものではなかった。

「漣に歪んだ影も、掻きたてられて舞う澱も、お前のせいだ」

ばかめ、と独りごちればくちびるに僅かな痛み。

 

 

泊めてくれ、とその男が隊長室を訪なったのは、午を過ぎてなお日が傾く気配も見せないころだった。

大前田は所用で出していたのだったか会食が長引いたのだったか、とにかくそのとき砕蜂を除いて隊長室は無人だった。恐らくそれを見澄ましたうえでのことだろうが、そこに菜を掠める猫のように東仙は滑りこんで来た。

「何用だ?」

「何ということも無いけれど。都合が悪ければ改めるよ」

旅禍の侵入からこちら、藍染殺しの騒ぎに隊首同士の腹の探り合いに、はたまた護邸のセクショナリズムに異を唱える若手たちの対応に、と彼らは忙殺されていた。疲労と焦燥に肩が重い。それはこの褐色の男も同じだろうに。まして彼は藍染を崇敬していたのではなかったか。

密な睫毛の下の影が濃い。それが紫紺に見えるのは、やはりその肌も血色がよくないせいだろう。眠りが要るのはお互い様だ、ととっさに思い、いまさら気を張る必要の無いふたりなのだからいっそ泥のような疲労を試すのもいいのかもしれないと思い直した。誘いの奥にのぞいた孤独に、哀れみを感じたのでは断じてない。縋るような口調ではなかった。

「…まぁ、いい。子の刻以降にしろ」

わかった、と声にださずに返したときには身を翻している。忙しいのはかえすがえすもお互い様だ。長靴の踵をとめず、つけ加えた。

「―――部屋の用意は要らない」

紙面に目を落としたまま、いっかな荒れる様子を見せない、肉の色のくちびるを思った。

 

 

客人だから、と曲がりなりにも礼に則り風呂を先に譲れば、砕蜂の腕を引いて浴槽に放り込み、あろうことか、この男は菫の薫りも猛々しいいやに少女趣味な液体石鹸を持ち込んだ挙句、あげる、とのたまわった。

「要らん!」

「そう言うと思った。私もいま開封して閉口したよ」

「そう思うのなら持ち帰れ!というかなんで持って来たこんなもの」

「疲労回復に、と隊のこから貰ったんだけどね、私が使うにはあまりにもと思えて。でもそのこの目に触れる範囲で誰かに譲るわけにもいかないし」

「それで捨てるもしくは別の隊の被害者を探す前にうちに来たというわけか。ふざけるなこの大たわけ」

まあこういうのは大して間を置かず薫りが飛ぶよ、と至極真っ当そうな口調ででまかせを言うから、腹立ちのままにその身体を泡まみれにしてやった。煙の匂いが鼻先をかすめたと思った瞬間、それは全て青紫に塗り潰されて、目の奥までもに押し寄せてくる菫の薫りに、くらくらする。己の膚もこの薫りに染まるのだろうかと、それははとてもおそろしいことのように思えて。

思えばこの男が共に用いる何かを持ち込んだのは初めてのことではないだろうか。これまでは自分用の使いきりの小物を持ち込むか蜂家のそれを借用するか、放っておけば排水溝まで掃除しかねない几帳面さで、訪いの跡を残さない方針だったようだが。ちなみに、さすがに掃除は雑人が逆に不審がるからと言ってやめさせた経緯がある。

「…どういう風の吹き回しだ」

泡だらけのうなじに湯を浴びせながら、訊ねても首を傾げるだけだった。砕蜂にしてもさほど意味のある問いではない。終わったぞ、と背中を押せば、くるりと振り返って砕蜂の手をとりくちびるを寄せる。

「何の真似だ」

「一宿一飯の礼だ」

真面目くさって返してくるから、砕蜂はまた笑ってしまう。

だからその夜は心地好く眠れた気がする。

そんな安寧は夜明けと共に綺麗に消え去った。あっけなく揮発した菫の薫りのように。使命感と職務への忠誠心に、疑心と憤怒と悔恨が見え隠れする戦場に、放り込まれる。誰もがいぶかしむ処刑の日は、目前だった。

 

 

思い起こす。その謀反を知り、双殛の丘で現実が軋るような、しかし同時に何かが腑に落ちた感覚を同時に覚えた瞬間を。ありうべからざる愚行を目の当たりにした驚愕とそれを留めることが出来なかった悔しさと。

東仙のことを思い出したのは、その姿が消えてからだ。

結局あの死神(奴とて、砕蜂にとっては死神のひとりでしかなかった。瀞霊廷に在る死神のくせに何を、と言ってやりたい気持ちさえある)は己の志を貫いたのだ。護邸にとっての悪行という謗りを受けても、周囲の誰もを振り捨てても。かつての、砕蜂の神のように。

いっそ潔いほどに。何も残していかなかった。その生活の残滓さえ、驚くほど徹底して消し去り、往った。隊舎の私室からも私物がほとんど除かれ、清掃されたままだったという。曰く「少なくとも最後の数日はそこで日々を送っていたとは思えないほどに」

たしかに、彼はそこで生活していなかったのだろう。

一夜の宿を求める理由はなんだ?情を交わすことかもしれないし、あるいは単に、本当にただ寝る場所が必要なのかもしれない。

「―――…っふ」

声はかろうじて抑えた。伏せた面の口角が上がったのを、見咎めるものもいないだろう。笑いの衝動は誰にも知られないままに葬られる。

誰かが見たとしても理解も共感も出来ないだろう。反逆者たちの遺留品とそこから得られる推理についての、よりによって隊長格向けの捜査報告で、何を吹きだすことがあるというのか。

「―――以上のとおり、動機を示唆する私物はほとんど残されていませんでした」

そうだろう、それだけ周到に準備し、綿密に実行された企みだった。それができる死神が、彼らだった。まさかその計画のなかに、自室の原状回復までもが含まれているとは思わなかったが。

寿命の長い死神は、それだけ他人の過去と裏の顔に冷淡になる。長い生、他人の縛縄にまでかかわっていられないというところだ。だから松本と市丸の過去を知るものは少ないし、東仙と砕蜂のあえかなかかわりを知るものも、恐らく、いない。砕蜂とて、就業中と、共にあるとき以外の東仙がどこで何をしているか探りもしなかった。刑軍として末端の担当者が情報収集は行っているはずだが、砕蜂自身が気を入れてその資料にあたったことは無い。

こういう場合の捜査は、まず私的空間の物的証拠の徹底的捜索が常で、それ以外の調査が後手に、薄手になる。だから自室を蛻の殻にした彼らの判断は正しい。調査班が知りえないことは、護邸の誰もが―自身が抱いている秘密以外には―知りえず、そうして共有されない記憶は風化も早いのだ。遠からず、東仙という男は史料に刻まれる文字だけの存在になる。

「最後の数日間、隊舎を空けていた様子も見られまして…勿論旅禍の騒動で指揮官らが徹夜や執務棟に詰めていた状況ではありましたが」

「なお、東仙要については不明の日、自室棟で何かを燃やしている様子があった、と証言があり…証拠隠滅を図ったものと…」

空白の数夜を埋められない、ということだろう。空白の一部は推測される四十六室への潜入であり、一夜は―――

(よりによって刑軍総司令官の私邸とは―――!)

これが滑稽と言わずしてなんと言うのか。

自らの痕跡を消すこと、それも恐らくは謀反それ自体の遂行とは係わりの無い個人としての存在の証を消すこと―――それを徹底させるためだけに、同僚のところへ忍んできたのだ、あの男は。世界を覆そうとするその企みの大きさに比して、なんと。

ばかばかしいほどの几帳面さと、それにうかうかと加担した己と。

報告者たちは喉から手が出るほどに情報を欲していながら、"何か協力を"とは口が裂けても言わないだろう。超党派の精鋭で構成された特別捜査団の意地にかけて。そもそも個別聴取はとっくに終わっているのだ。その場で、砕蜂はあの一夜のことを黙殺した。

(夜一が戻ってからというもの、護邸の指示を覆してばかりだ)

けれどこの黙秘は、夜一に従ったことのように、護邸の使命を超えた、秘された大義さえない純然たる造反だ。翻ってその価値を量ってみても、単に砕蜂個人の保身程度の意味しかない。自白したところで、せいぜい砕蜂の評を少々落とす程度の、つまらない背信。

それでも砕蜂はこの秘密を墓まで持っていくだろう。暴かれることを、戯れのように恐れてみせ、使命に背いた己に折々唾棄しその記憶を独り手繰る、そういう。菫の芳香のする秘密は、砕蜂のうちに根付いて育って東仙の像を結ぶ。ちいさな罪悪感と忸怩たる己への思いと共に。

(あやつとて、身のうちで針となり棘となる、そういうものを知らないではないだろうに)

あの男は、東仙はいつもこうだ。かたちのない正義だの悪だの、戦いだのにばかり気をとられて。それを語るそのくちびるの柔らかさや傷は何も残さないと思っている。東仙自身を記憶して生きていくものたちを知らなさ過ぎる。己を正義の喧伝放送を詰めた風船だとでも思っているのだろうか、あのうつけは。

笑いを殺すために、噛んでいたくちびるが疼痛とともにぷつりと切れた。

 

 

 

 

 

 


 Dödel Up 

棒一本で踊らされる、呆けた表情の人形。奇妙に誇張され省略されたその姿は見るものの笑いを誘う。それを透かして見えるのは、真実、などというidealで身勝手(そしてなんと空虚であることか!)な概念ではなくて、見るものあるいは操り手の映したい偏った一面に過ぎない。滑稽であればあるほど、好ましい、そういう類のカリカチュア。