うーむ消化不良。。。


千鶴は、何でもできる。

わたしが秩序立てて積み上げたものを、一瞬でばらばらにしてしまえる。

 

例えば、わたしの体に消えない痕をつけたのは彼女だった。

千鶴は私と彼女との間にそんなものが必要だなんて、考えていなかったはずだ。わたしたちは友達で、証など無くてもその関係を続けられた。もちろんそれ以外の関係を望んだことなんて一度もないし、これからも無い。

 

例えばそれは、わたしたちの間に一度だけ交わされた行為と同じで、ほんとうならやり過ごされてしかるべきものだったはずだ。千鶴のセックス(に類似する行為)に対するハードルは、私のそれよりもずっと低かったと思うけれど、誰にでもそれを解放してたわけじゃない。私たちは友達だ。本当は、そういう行為は必要なかった筈だ。

それが有り得たのは、只管に私がそれを望んで彼女がかなえてくれたから。

 

 

高三の春、私は男と(固有名詞を出す必要もないくらい、凡庸な相手だった)お定まりのコースで揉めていた。自分ではそれなりに巧くあしらえていたつもりだったけれど。その"巧く"ということ自体が彼には気に入らなかったのだろう、おそらく。彼はその年齢の男の子らしく優位に立ちたがっていたし、私はその本音を見越した上で、巧く立ち回れる筈だと信じていた。例えば甘えてみたり、強請ってみたりする行為をちりばめることで、絶対に踏み込ませない自分のテリトリーを確保するといったような。

―――それに、本当に手に負えなくなったら、手放してしまえばよかったのだから。

そのころは、"手に負えない"ものというのは手放したいというこちらの意思いかんに拘らず、負い被さってくるものだと知らなかったのだろう。

 

とにかく、彼は私を束縛しようとしたし(それは責めるほど常軌を逸していたわけではなく、私の狭量さの問題だ)、私はそれを受け入れた振りをして関係を巧くいかせようとしていた。けれど、それは私の思惑ほどには巧くはいかず、そのために、私の時間はどんどん削られ、苛立ちは募った。

陸上、受験勉強、それらは目標が明確だったし、限られた時間で費やすべきものは決まっている。スターティングブロックは意味もなく足首を掴んできたりしないし、塾の講師は問題を解いている最中に絵文字だらけのメールを飛ばしてきたりしない。

 

水風船が破裂するように、苛立ちが爆発したきっかけは、本当にささいなことだった。

「―――なぁ、これ着けてよ」

クールダウンを終えて、いつものように校門で落ち合ったときにこぎれいな小箱を差し出された。促されるまま開封すると、零れ落ちたのは細身のアンクレット。彼の目が促すまま、頷いて"大切にする"という意味のことばを返したように思う。

「違う」

珍しく、きっぱりとした拒絶に目を上げる。

「大切にしてほしいんじゃない。いつも着けててほしいんだ―――走るときも」

冗談じゃない。

発作的に、抑えていたものが弾けた。狙うのはインハイ、最後の夏なのだ。走ること、それだけは邪魔されたくない。

「ごめん、無理」

そのまま背を向けて、その腕を掴まれて―――――気づいたら歩いていた。彼をはねつけるためにかなり酷いことをしただろうと思う。多分。

この期に及んでも、私の頭にはもっとうまくできたはず、何が悪かったのか分析してみろという声が響いていて、自分自身を余計に苛立たせた。相手を思いやることさえしたくないほど、自分に対して腹を立てていた。

 

「―――鈴」

どれくらいそうしていたのか。気がつけば、駅前の繁華街で声をかけられた。

「…千鶴」

友人はいつもと変わらず、ほんの少しだけ上気した頬をしていた。まるで走ってきたとでもいうように。

「珍しーじゃない。そんなにイラつくこと、あった?」

「・・・・・・・・・・・・」

答えに詰まった。至らない自分を曝け出すのは、難しい。

「それよりさーちょっと話すわよ!最近全然会えなかったしさ」

そのときは、とにかく頭の中のぐちゃぐちゃしたものから目を逸らしたかったし、千鶴はそうさせてくれるに違いなかった。

 

 

「…んー?おばさん、なんて?」

携帯をおろして部屋に戻ると、部屋の主であるところの千鶴が顔を上げた。

「別に。着替えとか平日なのに、とか」

「うっわ信頼されてんのねー外泊なのに」

「千鶴だって外泊ぐらいで何のかの言わせないでしょ」

「ウチは諦めてんの」

話は尽きなかった。

しょうもないことから、受験対策まで本当にバカみたいにしゃべり通した。

「―――結局ね、彼とは終わりだと思う」

いい加減喋り疲れたころ、そう投げ出した。

我ながら、ずるいと思う。これは肯定を得るために提示した鍵に過ぎない。女友達は批判しない。論評しない。それが不文律だ。その場限りとはいえ、同胞の肯定というこの上ない安らぎをくれる。まして相手は千鶴だ。わたしの本心などとうに知れてるし、何一つ否定せず、ただ飲み込んでくれる。

「いーんじゃない。無理して続けることないわよ」

望むことばをくれる。

「しっかし、みーんな別れちゃうわねー…あたしらも来年卒業だしなー」

みんな?

確かに高校生活最後の一年だ。私と千鶴とは志望校も違う。受験で私たちがどこに散っていくのか、解らない。

「嫌」

何を言いたかったのか、言ってどうしようというのか、考えてもいなかった。ただ千鶴やみちるや、それから陸上から離れることなんて考えたくなくて(それでもなお、離れなければならない自分たちの進路を知っていて)、嫌だと繰り返した。

「嫌だわ。そんなの」

「―――大丈夫よ。鈴は友達だから。私たちは離れない」

 

―――手を伸ばしたのは、私だった。

千鶴の頭を抱き寄せて、薄い色の髪に頬をのせた。たぶんいつもの香りではなく、自分と同じシャンプーのにおいがしたと思う。

「今日さ、見てたの。4Fの自習室から。…校門のとこでアンタがアイツを袖にするところ」

わたしの髪が落ちたその下で、千鶴が笑う気配がする。―――それが泣きたいほどに嬉しかった。

「だからノルマ投げ出して、追いかけちゃったわ」

日に焼けた肌にキスを落とすと、千鶴も同じように唇を寄せてきた。

啄ばみあうようなものだったけれど、千鶴の口角はずっと上がったままだったけれど、私たちは本気で戯れあっていた。

どちらか一方が、境界を越えた、と合図したら打ち止めになる。女の子同士のふざけ合いに過ぎなかったけれど、許されていることを信じるための、大事な契約だった。

千鶴は勿論慣れていた、のだと思う。私は特別になりたくて、二人の間を繋ぐ何かの証が欲しくて体を繋げようとしていたけど、千鶴が冗談や悪ふざけに紛らわせてくれるから、安心してそんな逸脱を自分に許していた。

彼女は勿論、大袈裟な声や仕草を要求しなかったし、私の欲しい言葉をくれた。

「ずっと好きよ、鈴」

 

「…ねぇ」

ひとしきりじゃれ合って、そうして離れたとき、千鶴はぽつりと言った。

「タトゥ入れない?」

「タトゥ?」

それはわたしの将来に間違いなく枷となるものだ。ファッション、と容認される場所ばかりではない。

「うん。見えないところに。わたしと同じもの」

「千鶴入れてるの?」

「まだ。…だから一緒に」

千鶴の触れた熱さは、まだわたしの中にあった。それはわたしが自分を押し流して欲しいと望んだものだ。

「うん。やるわ」

「うん」

 

 

 

翌日、私たちは何食わぬ顔で授業を受けた。午前中だけ。

そして、(本来は高校生なんか当然立ち入り禁止であろう)スタジオに入って、細々とした打ち合わせといくつかの書類を出して、施術時の注意事項とともに身体に墨を入れることのリスクを念押されて、帰された。

翌週、少しの痛みと後ろめたさを引き換えに、それを得た。同胞のしるし。

 

「―――千鶴!」

ただ、その場所が。

ワセリンとフィルムと、それをごまかすための上着を脱いではじめてそれを知った。

しるしにしたのは、片翅の蝶。二人合わせて一頭になる、片翅の蝶。

わたしは右胸の下に、千鶴は左手首に。

「そんな―――」

ガーゼで隠されたそれは、長袖で隠れる程度の位置。どんな検査や面接であれ、簡単に露呈してしまう。

「あたしは平気よ?テーピングでごまかせるし、こんだけカミングアウトしてて鈴みたいな道行けるとも思ってないから。

それに、胸同士だと合わせらんないじゃない?」

 

 

 

私たちは卒業してそれぞれの道に進んだ。今では顔を見ることさえまれになった。

ひょっとしたら、わたしはいつかどこかで、誰か別の女の子が片翅の蝶のタトゥをしているのを見つけるのかもしれない。あの左手首の蝶に見合う。

それはきっと、わたしと千鶴の結びつきに綺麗に相似する関係を示すものではなく、恋人や姉妹や、そんなもっともっと近くて強い関係を意味するのだろう。千鶴にそんな真摯さがあるのかどうかは分からないけれども。

でも、その娘たちがわたしの蝶を見たらどう思うのだろう。きっと自分のそれと同じ意味を汲んで、わたしたちの関係を疑うのかもしれない。

そんなかたちで、わたしと千鶴との関係が曖昧になるのも面白いかもしれない、とふと思った。

 

折々、昔の仲間が機会を設けては集う。そのたびにわたしたちは少しずつ変わっていく自分自身をみつける。

そのときだけ半身を取り戻して憩う片翅の蝶だけは、何も変わらない

それは、友人のやさしさと、そんなかたちで友人に甘えたわたしの弱さの証だ。