「―――若かったからねぇ」
「本当に、途方もないことをなさいましたこと」
「当人に言われちゃお終いだねぇ」
楽しげな三人を見て、雛森も嬉しくなる。その日はその話題でお開きになった。
夏宵の酒宴。年長者の多い席は酒精を過ごすことも騒ぎすぎてお小言を食らうこともなく、終始穏やかに進む。雛森が同輩のなかで一人ここに残っていられるのも、その気安さと穏やかさのためだった。いつしか銚子を回す手がとまり、昔語りと笑い声がひろがる。雛森も、同輩たちの誰もが知らない、若い上司たちの影は、おかしみとほんの少しの苦さを添えて映る。それは慕わしく好ましい。
「ピアノいえばさぁ」
京楽が酒杯を置いてほんの少し身じろぎをした。"とっておきの話をするぞ"とでもいうように。
「僕たちが同じ高校だったって話はしたよね?」
大きな手が三人を示したのに頷く。入学時から同じ部にはいって意気投合した京楽と浮竹、部は違えど同じ音楽教諭を顧問にしていた卯ノ花。確か卯ノ花が1年遅れて入学したにもかかわらず、練習スケジュールの調整や演奏会の構成・進行管理に腕を振るっていて恐れをなしたと、冷やかされていた。結局はその縁で、卒業後何年もたって、この輸入代行会社立ち上げの初期メンバーになったという。
「で、まあお互いの音楽スキルというか得意分野は大体知ってたんだけど」
浮竹は朗らかに笑っている。卯ノ花がまた杯を干した。
「こいつがさ、ある女の子に告白したんだけど、その方法が振るってるのよ。何だと思う?」
「えぇ?」
優しくて快活な総務部長、というイメージしかない彼が、いや印象を糊塗するのはよそう。偶に出る無茶振りや、己の身を省みない頑張り―後で倒れられて大抵二次被害が出るが悪気は一切ない―を鑑みれば、多少アホな、もとい無謀な、いやいや若さゆえの過ちというのも十分にありえるが。その内容までは推し量れない。
「えぇと、定演の最後に告白タイムをつくったとか…?」
「うーん。違うなぁ」
「……歌で告白した、とか」
「はずれ。でも惜しかったね」
浮竹が嬉しげに評する。気分は審査員である。
(自分のネタでこんなに楽しめるもの、なの) 雛森には理解できない。
「―――そうそう。
この人さ、誰もいない音楽室に相手の子呼び出してさ」
「………」
「ショパン、ソナタ第2番の第1楽章弾いて見せたのよ。そりゃもうもの凄い勢いで。
で、がーっとしめてさ、」
思わず見やると、浮竹はさすがに片頬を歪めていた。
「開口一番『これ、俺の気持ち!』」
( はぁっ!?)
三人が三人とも声を立てて笑っていた。卯ノ花までが眉間を押さえて肩を震わせている。
「そんなこと言われてもさ、相手の子もポカーンだよね」
唖然として、そうしてようやっと喉の奥に笑いの渦がこみ上げてきた。
(なんてひと!)
持てるすべてで、その気持ちを伝えたかったのだろう。伝わったのかどうかは別にしても。滑稽味もさることながら、その真摯さは面映さを超えて愛おしい。卯ノ花が目を伏せて笑う向こうで、渦中の人は胸に手を当てた。
「―――若かったからねぇ」
「驚きました。浮竹さんがあんな」
JAGUARのXK、黒の塗装はどういう加工か光線の加減でボルドーの光を反射する。ライト周辺とメタルホイールをマットブラックに仕上げた、ある種の自営業を連想させる公道で絶対に隣り合わせたくない類の車だが、乗心地は悪くない。送ってくれるという有難い申し出を受けて、雛森は京楽の隣に座っている。
「うん。彼はアレで熱い男だけど、昔は素っ頓狂さとボケをそのままにつっぱしる勢いもあったからね」
雨が降り出した。対向車は意外に少なくて、滲んだヘッドライトが美しい。酔いのままにふわふわと踊りだしそうな頭で、いとしい世界を眺めた。
「ほんとに、あきれちゃうけど、可愛いですよね。あ、そういえば告白の結果はどうだったんですか?」
「どうもこうも・・・」
「えぇ、やっぱり伝わらなかったんです?」
京楽が笑った。今夜はじめてみせる、苦い笑い。
「少なくとも特別にはなれなかったね。―――別に彼はそれについて、今は何を気にしてるでもないんだけどさ」
(―――今?)
「いやだねぇ、年とると。かつての自分の若さまでを面白がるくらい、自分を突き放しちゃうんだよねぇ―――あわよくば昔日の焼けぼっくいがどうにかならないか、なんて考えちゃうんだから。面白がって」
「京楽部長?」
「彼女のほうは堪ったもんじゃないだろう、と思うのに。今更互いの距離なんて変わらないよなぁ」
XKは裏道に入った。高速を滑らかに疾走した鋼の獣は、スピードを落とすと途端に脚捌きが悪くなる。耳障りな音が会話を邪魔する。
「雛森君も覚えがあるんじゃない。振ったほうが振られたほうよりもずっとはっきりそのことを憶えてるもんなんだけどなぁ」
何を言っているのだろう、この人は。
「ほら、着いたよ」
気づけば自分のマンションの前だった。
覚束ない歩調で礼を言って、エントランスをくぐる。
ぐるぐると、読み取れない言葉が脳裏を巡った。
( 「いやぁ、夢中だったからさ」浮竹さんは、悪びれもせずに笑った。屈託なく笑っていた卯ノ花さん、京楽隊長は「その子も憎からず思ってたはずなんだけどね」って)
まとまらない思考に何を与えるでなく、XKのテールランプは視界から消えた。
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