2月13日金曜日

 金曜日の帰宅は、零時を回った。

 帰宅して、鍵を閉めた途端のしかかっていた重みに耐え切れなくなった。振り落とすようにしてブーツを脱ぎ、キッチンの脇に座り込む。外気に冷えた肌に、それでも更に床は冷たく硬い。

 深夜を越えた帰宅は、部下の一人を送り出す飲み会のせいだ。

 彼女が、辞めます、と言った原因は自分にあるのだろう、と薄々わかっている。同時に、原因をすべて自分に帰着させるのはおこがましいことだとも。選択をなしたのは一人の人間で、その決断の過程にすべて自分が影響していたと思うのは心得違いも甚だしい。

(私の存在はそんなに大きくない)

 

 送別会のあいだ、部下は終始にこやかで、砕蜂に対して「感謝している」と繰り返した。スキンシップがてらに、仲間内で砕蜂を盛大に扱下ろして、その同じ唇で謝辞を綴る部下たちのほうがよほど大人で、この世界にありうべき存在なのだろう。少なくとも自宅で立ち上がれなくなる自分よりは。

 指導だの育成だの、不得手だと自覚している。それでも、その手の内にあるカードを択び、もてるものはすべて渡そうと手を尽くした。やっと一人で戦えるかと手を離し始めたそのときに、羽ばたき始めた雛鳥はあっさりと零れ落ちた。

 人材育成にかけるコストなど回収できなくて当たり前、技術だけは一人前の偏執狂をどうやって撓めて望む結果を得るかが主眼になるこの業界、新人を一人潰したところで失策とはみなされないだろう。 誰からの叱責があるわけでも、自分のチームのパフォーマンスが極端に落ちるわけでもない。

 なのにこの喪失感は何だ。

 

「―――何をしている?」

「…………酔った」

 東仙が箱からおきだしてきた。そんなに長い時間、座っていたか。

「…冷える。部屋に戻りなさい」

「黙れ。わかっている」

 東仙が黙した。ややあって、何があった、とおざなりに訊ねる。

 ―――……新人を一人逃がした。

「そうか」

 よくあることだ、と表情の見えない顔でつぶやいた。

「かくいう私も、ある」 

 お前もか。チョコの癖に。

「チョコにだって色々あるんだ。―――だから、どうしようもなかったことも、どうすべきでもないこともわかる。所詮他者の選択に巻き込まれただけだ」 

 ああ。

 ひょっとして自分は慰められているのか。小さなこの菓子に。

 滑稽さに笑いが漏れた。耐え切れない、と思った荷を、自分の掌よりもちいさな彼が除こうとしている。

「寝てしまえばいい。すべきこともないのだから」

  …そうするか

 立ち上がると、手招きされた。何かを差し出してくるので、顔を寄せれば、飛び上がって唇に何かを差し込んだ。

 一欠けらのチョコだ、と気づいたときには、それは舌の上で崩れて甘い油膜が広がる。

 抜けるカカオの香りも粒子さえ気づかせない滑らかな舌触りも、薄布が翻るほどのはかなさで喉へ逃げる甘さも、陶然とするほど魅力的だった。

「君は今何かを得、私は亡くした。その決定に君の意思は何一つ関与していない。そういうものはたくさんある」

 よくあることだ。チョコレートの身にも起きるくらいに。

「明日は食べ切ってくれ。切り口から一気に酸化する」

 微笑が浮かぶ。数分前までの、どうしようもない喪失感は失せた。穏やかな気分でキッチンを出る。

 ―――お休み

「おやすみ、砕蜂」