弥生も旬を過ぎたというに、その日は午から大雪が降った。
だらしなく積みとけた雪を踏み、隊主室に戻ったのは夜半。雨戸は開いたままの筈だが、逃げ遅れた雪雲は、それよりも更に力ない月の光を遮り、闇が凝る。
隊員は、すでにさがらせた。当直のものは、警邏に出ているはずで、ここにはいない。砕蜂がひとり戻ったのは、残した書類仕事があるからで、それも早々に片付けて休まねば明日に障る。明日も、その次も、なさねばならないことが山とある。なのに、次の一手を進めるのがひどく厭わしい。
はやく灯を入れねばと思うのに、億劫さが先立ち、結局闇のなか独り座っている。
「――――誕生日おめでとう。砕蜂」
ふいにさした柔らかな声も、闇のなかから。馴染んだ気配に、息を吐いた。
「………他の者は一月前に言って寄越したがな」
今頃そんな惚けた挨拶を宣うのは貴様ぐらいだ、東仙。
「どうもね、簡単には来られなくて」
すまない、と苦笑する唇のかたちを覚えている。見えぬ内側に、噛み跡があることも。―――いつもそうだ。こちらの期待を裏切って、そのくせ裏切る自分に苛立って自分を罰そうとする。目的のためにはいくらでも冷酷になれるのに、ひとを傷つける罪悪感は亡くせないでいる。
(わたしはとうに、あきらめることを覚えたというのに)
呆れやあなずらわしさや同属嫌悪や憐憫というものを通過して、砕蜂が辿りついたのは、頭を撫でてやりたい、とでもいった相互理解を伴わない馴れ、だった。それはあちらも同じらしく、爾来ふたりはこんな遠慮のない振りをして、その実互いの傷を見ないように距離を測ってきた。
(たとえば互いの過去を話題にのせる度にその数を悔いるような)
「―――遅くに失礼してしまったかな。お茶でもと思ったのだけれど」
「いや、座っていろ。用意してくる」
湯は隊主室の外にある。格子戸をひいて一歩踏み出すと、床板がぎぃ、と鳴いた。
(奴はこの音が嫌いだった)
隊主室は戸を閉ざさないのが慣例である。会議だとか査定だとか外出だとか、特別な場合を除き、板戸と格子戸を開け放って代わりに衝立やら格扇やらで一応の目隠しをする。訪うものは先遣をおいたうえで戸口の席官に取次ぎを頼む。そうやって繁く踏まれる床板の消耗が激しいのはどこも同じで、殊に二番は巨漢がその上を転がるせいか、化粧板の一枚が磨り減って、踏む度に音をだす。砕蜂などはその音が取次ぎの代わりになってよいと、放っておいたのだが、音に敏いあの男は気になって仕方ないらしく、毎度正確にその一枚を避けて、衝立の向こうで踵を鳴らす。それが常だった。
(今日はその音を聞かなかった)
―――思い出せなかった。
(わたしもたいがい、呆けたものだ)
疲れている。湯の沸く音を聞きながら、すこしだけ目を閉じた。
茶器を抱えて戻ると、やはり室は暗いままで、この男は変わらず明かりを必要としないのだと安堵した。
「危ないよ。君は見えないだろう」
伸ばしてきた手に茶盤ごと押しつけ、長椅子に腰を下ろす。
「いらん。貴様こそさっさと落ち着け」
ゆるゆると降りてくる急須を浚って、茶杯に注ぐ。流れが乱れるのは手元が見えないせいだ。それ以外に、理由などない。
「こちらは最近どんな感じなんだい?」
「……変わらぬ」
嘘だ。けれど真実だ。この世界はいつだって過渡期で、それは勿論東仙がいたころもいなくなってからも変わらない。いつでも私たちは奔流のなかで足掻き続けている。
(ただ、貴様がいない)
閉じた窓、戸口の格子の隙間からあわい光が射す。それは東仙の姿を見つけるには足りない。
「檜佐木は、うまくやっているのかな。会いに行きたい気もするのだけれど、どうもね」
「行ってやれ。貴様がいないと奴は腑抜ける」
そうかな、もう独り立ちしたと思ったのだけれど。ほら、あのときも、
補うように、言葉数を多くすることは、かつてはなかった。
「私のところは穏やかだよ。いや私が始終眠っているせいかな
何もかき乱すものはなくて、ときどき懐かしい気配が近づいてくる。触れてくることもある」
微笑みながらであろう柔らかい声が、最近頓に増えた。いっそいとけない、とさえいえるような口調も。
耐え難い。聞きたくない。
「……………東仙」
「たまに掌をあわせてくる。僕の掌とぴったり合う、でも華奢な手で
ああ、あれは君なのかもしれないね」
「…東仙」
変わらない、やさしい声。なのにそのやさしさに、空気の漏れるような、不安。
「ただ、そのてのひらは僕と同じくらいの大きさなんだ。
温度もなく、ただそこに在って」
「東仙!」
昔は、堅苦しいほど理立てて話をする人間だった。
「きみの淹れるお茶が好きなんだ。
―――でもおかしいな。飲めないんだ」
「…そうか」
そうだろう。今の貴様は、左腕しかない。
(わたしはそれを覚えているんだ、東仙)
おまえが散る瞬間も。おまえの価値も。
何かを言いあぐねる気配も、闇のなかから。―――濡れた頬を冷やさない、暖かい闇。
「…すまない」
涙すら、拭ってあげられない。
「―――知っている」
貴様はもう死んだのだから。伸ばす腕も指もちぎられて吹き飛ばされて、なのに。
「――――――私はもう何度ここを訪ねた?」
何故何度も喪失を繰り返させられるのか。
「砕蜂」
明晰な声。これが、わたしの知る
「私はいったいこの前はいつここを訪ねたんだろう。また来られるんだろうか、それとも終わりなのか。私が私だと思っている主体は東仙要ではなくなったのかな。それとも君が私のなかの幻なのか」
頭を振ることしか、できない。うしなうものは確かにあるのに、それは残らない。魂の司と呼ばれるわたしたちでさえ。
死の瞬間、わたしたちを構成する霊子は極小単位に還元され、二度とは戻らない。それが摂理だ。けれど東仙は夜毎現れる。そのなかみをすこしずつ毀ちながら。
何故、という問いは誰にも応えられぬままに、放擲される。
訊ねずにはいられなかった。飽くほどに永い生をともに過ごした、その男を東仙たらしめていた頑なな正義や思考や純粋さが、鈍磨されていく。それは冒涜というだけでなく、砕蜂の身を抉る行為に等しい。その痛みに耐えかねて、叫び続けている。
意味をくれ。喪失をもっとも惨いかたちでもたらす意味を。
これは、魂が浄化されるまでの刑なのか。あるいは
「今、幸せか」
苦患のなかを生きた男の、再生のための忘却なのか。生者は死者を悼み、死者は安らえと。――――――――救いだとでも、いうのか。
罪を犯せば罰の訪なうことを、地獄の釜の蓋の上に立つわたしたちは、知っている。―――この男は自身を抹消せねばならぬほどに穢れた存在だというのか。魂の安寧を得るためには、かれの記憶も思考も奪われねばならぬほどに。
息を吐く、気配。闇は揺らがない。それでもその息はきっとあたたかい。
「私が幸せと言えば、君の痛苦は減るのか。
―――私は幸福などではなく、いつだって美しい世界を希ったよ」
それは叶わぬままに。
この男は所詮、幸福とは相容れぬ存在だった。わたしが知っている。ただ願ったことはあるのだ、幸せであれ、と。
「それでいいんだ」
「君が名を呼ぶたびに、思い起こす。私が私であることを。憎悪と理想と正しさと、許し難い許されない自分を」
やさしさよりも厳しさを覚える声。頑なで、勁い。―――自分も周りをも傷つける声。
「すまぬ」
わたしは、安寧のなかで鈍磨したおまえなど望めない。
―――徐々に貴様が崩れてゆく幸せなど、いるものか。抗おう、この世界の理に。
「それでいいんだ」
男の声は薄らいでいく。また、終わりが近い
「私の魂の救済など、祈らなくていい」ともに世界を憎悪して、
「やり遂げなければ」
「東仙!!」
貴様を失いたくない
思わず伸ばした腕、触れた何かに爪立てて、何も掴めもせず。
雲の切れ間、月明かりが射す。
春物の白磁の椀のなか
紅ひとひら。
それだけだ。
2011年3月7日、関東で時ならぬ大雪が降った。
とかってシメようと思ったんですが、ちょっとだけ追記。
タイトルに悩んで、ちょうど流れてたTräumerei にしようかと思ったんですが。(子供の情景だし夢だし。) 頭の中で↓の歌詞がどうしても消えなくなりまして、やめた次第であります。
" 犬の~毛皮着る~
貴婦人のつ~く~るスープ
中身を 知ったら
もう二度と食べれ~な~い~"
ほら。
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