「さて、今日こそは食べてもらうぞ」
休日の朝、起き抜けにコーヒーを淹れたらそう声をかけられた。
「別に…」
よくはないのか、このままでも、と言おうとして気づいた。彼の身体は一部欠けている。
「酸化というのは、止められないのか。例えばチョコを足して」
「無理だな」
「冷凍保存は出来ないのか」
「やめてくれ、香気が飛ぶし室温に戻した時に油脂が劣化する」
「食べなくとも」
「それくらいなら、いっそ棄てなさい」
断ち落とす口調は、迷いのなさが現れたものだ。
「わたしが託されたものと私がチョコであることの意義を冒涜するつもりかい」
(勝手に来たのは、貴様の癖に)
勝手にこの玄関に届いて。
勝手にキッチンの一角を占拠して。
勝手にこの胸に届く言葉をなげかけた。全部、砕蜂のせいじゃない。
「…貴様はメッセージも送り主も知らぬといったではないか」
知らない、というのは、それを負う覚悟がないということと同義ではないと思いながらも、言わずにはおれなかった。
「知らない。ただそれは、わたしが知らないだけで確かにいるし、君の中に響くものがあるはずだから。
君は送り主に心当たりが無いと言った。しかしそれを疑問に思ったし、贈り主を探そうとした。いや、している。まだ胸の中に残っているものがあるだろう。
それが託されたものだ。きっと」
「勝手なことを…」
「勝手だよ。わたしたちは一瞬で消費される嗜好品だ。責任を負うほど永続的な存在ではない」
手を上げて見せた。右腕だけを。もう片方は、肩からない。昨日砕蜂が食べたからだ。
痛ましい、と思い、しかしそれは間違いだともわかっている。彼はチョコレートだ、その組織を減らすことに痛みなど感じない。共感は無意味だ。それほどに砕蜂と東仙は隔たっている。
「君は、部下を“なくした”といったね。私の知る君も、仲間や部下を亡くしたよ」
「何のことだ、貴様のしる―――」
「君のもとからいなくなった人々は、彼等の人生を歩んでいる。たとえそれがみえなくとも。同じように君も歩き続ける。そのかたちのひとつが、チョコかもしれないし、他の何かかもしれない」
東仙は目を伏せたまま言葉を継ぐ。その瞼が、閉じているのか、開いているのか、いつの間にかわかるようになっていた。
(そんなことが、)
あるかもしれない。カカオと脂肪の塊が喋るのだ。電気信号を発するといわれる脳髄が、いつ蕩けてチョコレートになってもおかしくない。それでは、と言って別れた誰かが、ドアの向こうで別の何かになってもおかしくなどない。今此処にいる自分とて、ある一瞬には別の何かであったかもしれない。
遮られたことも、拒絶ではなく残された時間を惜しんで伝えたいことがあるのだと、すとんと胸に落ちた。
(貴様は今ある貴様のまま、わたしにそれを残そうと)
「君は、死んでいったぶかやなかまたちにたいして、憾みをもったかもしれないけれど。
かれらはなにももっていないよ。かれらにはなにもない。きみとおなじかたちでは。もしかすると、ちょこのようなかたちではあるかもしれないね」
声は徐々に不明瞭になる。溶けつつあるのだ。それに反比例して、香りは部屋中に満ちて濃密になる。
「そんなことを覚えていて欲しいな。
―――このわたしを惜しんでくれて、ありがとう」
さようなら、とそれだけ明瞭な言葉を発してぴたりと口を閉ざした。それきり身動ぎもしない。ただのチョコレートのように。
指を伸ばす。予想のまま、暖かくも柔らかでもない、糖と油脂の塊が指に触れる。あれほど柔軟に四肢を曲げ、動き回っていたのが嘘のように。
瞑目する。
その躯体は口の中でほぐれた。滑り落ちて胸郭を満たす。
(うそをつけ)
身体が、カカオの香りで染まる。これを一瞬などと呼べようか。
苦味は、憶えのない涙の味がした。
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