爪にかくれた指さきはくすぐったい。

 

 俺は、そういうものだと知っている。

 けれどもこの人はそれを知ってるかどうか。多分、知らないだろう。もとより爪を長く伸ばすこともほとんどない仕事だ。邪魔にならぬよう短く切られた爪のその隙間にすら入り込む血を、さらにこそいで除く、そういう。

 

 

 

 「くすぐったいわ」

まろやかな肩から指先までを震わすようにして、女は笑った。

女が化粧をするさまを傍で眺めるのは、嫌いではない。その度に目の覚めるような思いをすることもあるし、精巧な機械が組みあがるのにも似た満足感もある。目の前の女は特にだ。容色だけでなく、その遊び方扱い方も一夜の身代に入っているほどの特上品。

朱絹の敷布の上に腹をのせたまま、眺めている時間に実入りの如何程を費やしていることか。ぼんやりと視線を投げるその先。

さらさらとした油を擦りこんだ後、紅粉を含んだ刷毛を指先にはしらせる。軽く。

「何をするんだ?」

「こうすると、手指が綺麗に見えますの」

横から取り上げて指先をくすぐってやると、先ほどの台詞を吐いた。

「―着け過ぎては駄目。一目ではわからない程度に、曲げた指の白さを損なわないで映えさせるほどに微かでいいの」

くすぐったい、ともう一度言って俺の手から刷毛を取り上げた。

「折角拵えましたのに、紅い指跡がついては勿体のうございましょう」

品のいい女は、帰れとは口にしない。俺は大人しく其処を出た。

 

 

 

「―帰れ」

目の前の上司は、吐き捨てた。固い執務席のうえで姿勢を変えないまま、様子を窺う。

「何を考えているか知らんが、仕事をする気がないのなら即刻帰れ。目を開けたまま寝たいのなら二度と閉じんように手を貸してやる。無駄な思索など貴様には似合わん」

よかった。饒舌なのは自分も眠いからで、手が出ないところをみると機嫌もさほどに悪くない。この前なぞは、問答無用で硯が飛んできて羽織を一着駄目にした。裏地に二藍の正絹を使った気に入りだったのに。まぁいつでもつくり直せるが。

「―爪がちっと伸びてますね」

頬が一瞬痙攣した。が、このぐらいで先を恐れていてはこの人の副官は務まらない。

「あぶねぇっすよ。どっか引っ掛けるかも知れねぇしそこからひびが入って割れるかも知れねぇし、そうなると癖になるかもしれません。そーだ今切っちまいましょうそれがいい」

そんな瑣末事を―とか何とか降ってこないうちに、小物入れを取り出した。

神速を誇る軍団長閣下だが、意外にもこういうときの反応は早くない。(沸点が高いのでは決してない。念のため)普段から抑圧が効き過ぎているために、感情の発露を伴う作業は不得手なのだ。怒りが拳の形をなす前に手を打ってしまえば、雷は不可避ではない。こともある。

「はい」

―今回はうまくいった。

 「…………なんだその手は」

 右手に爪切り鋏、左手は掌を上に。

 「だから爪切りますから、お手を」

肩から上は微塵も動かさぬまま、左腕が舞った。

 

 …文鎮は勘弁してください。今、星どころか俺の脳漿が飛び散りかけました。

 「武人が易々とその手を預けるか。さっさとそれを寄越せ」

 「利き腕じゃないからいーでしょーが!!つか文鎮!文鎮は止めてくださいって!!」

 「現に無事だったではないか!そんなものをまともに食らうような部下は要らん」

 げんなりしたが、ここでは仕方がない。宿業だ――――配属の神の定めたもうた。

 「…いいから手ぇ貸してください。そんなものをまともに食らう部下にどうこうされる隊長じゃないっしょ。―――その間に右手で書きものも進められるし」

 これ以上ない深さの皺を眉間に刻んで、書卓の書類、左手、そして俺を見て、我らが隊長渋々ながらその手を差し出した。

 

 「―貴様がそうやっていると熊が栗でも食っているようだな」

 元よりそれほど長いわけでもない爪は、ぱち、という未練もなさげな音ともに、小さなかけらになって散る。爪は薄く、易々と血の色を透かす。

 「食ったりしませんから目ぇつけてなくて大丈夫っすよ」

引き寄せる振りをして、そっと指さきの皮膚を撫ぜてみたが、思ったとおり何の反応もなかった。

 薄い爪に固い皮膚。

 生まれてこのかた、鍛えられ続け応え続けた肉体の、唯一鎧わなかった部位と。傷つくことを前提に発達した部位。それがこんなにも美しいことに何故か痛ましさを覚えた。常の女であれば、何処よりも敏感でか弱いその指で、剣を握り土を掻き仲間の骨を拾う。

 鑢を出して爪の左右で動かす。――元より男物だ、磨くことなどできはしない。

 「ホントは油とかすりこんだほうがいいんすけどね。割れにくくなって」

 呟きは黙殺される。当たり前だ。

 

ただ、その桜色が惜しいと思っただけだ。紅を刷くよりもよほど美しいそれが。

 

思いながら、右手側を整えさせるために鋏を渡した。―――武人の利き手は預かれない。

 

 

 

 


そんな大前田。