彼女には爪をかむ癖があった。

あった、と過去形なのはすでに特定の意味で彼女と呼べる存在ではなくなってしまったこと、そしてすでに死んでしまったせいだ。

事故死だった。

たまたま(と言ってしまえば冷淡に過ぎるかもしれないが(情を交わした相手に対して)(だってあっていたのは別れ話のためだったから))最後に顔を合せていたのが僕だったらしい。最後の台詞のいくつかは覚えている。

 

未練はあるけどそれはあなたにじゃなく、ちょっと顔の売れたパートナーがいるっていうステータスに対して…それに気づいたから一緒にいられないの。

 

あなたも同じでしょう。

 

その通りだったので腹も立たなかった。無駄な恋愛はできない、という彼女と同じく、僕も不要な部分に費やすエネルギーをもっていない。彼女に執心する間に、今季のブーツを探すほうを択ぶ。そうやって身の回りを磨きたてるのが二人の習性だったけれど、彼女には欠陥があった。

 

爪を噛むのだ。かりこり。

 

中途半端な完璧主義は、一片の瑕でも見つけてしまえばそれ以上を目指す気概を失うものらしい。メイクも服も凄まじく拘りながら、わずかに指先を超える長さの爪には何も施さない無頓着。人の目がとまるのがいかにも嬉しいという颯爽とした歩みのくせに、ふとした瞬間に始まるのだ。

指を水平に、爪の両端を唇に挟むようにして。会話の空隙、ちょっとした待ち時間に、彼女がごく自然に顎を動かしているのを見た。はじめは止めさせようと強いてネイルさせてみたり、指を挟む直前の唇にキスしてみたり、いろいろ試した。多分、彼女が自分以外で一番噛んだり含んだりしたのが、ぼくの指だと思う。が、すこしも効きはせず、別れるにいたる。

 

 

別れたにもかかわらず、お節介な共通の友人というものはいて、やっぱり彼女の事故をご注進に来た。山の手の僕の家から帰る途中、愛車のカレラSカブリオレ(トンチキなキウイグリーンだ)240kmですっ飛ばすBMW M3が接触してずいぶん大きな事故に発展したらしい。前から、湾岸にはそういうのが出るよ、と注意していたのだがこれも少しも効きはしなかった。

結局カレラM3はピンボールみたいに跳ね飛ばしあって、彼女の身体をぐちゃぐちゃに砕いてから側板を突き破った。腕、というか上半身の其処此処は海に落ちて見つからないらしい。―――屋根のないくるまで140km出すなんて馬鹿だ、と呟いてみたけれど少しも教訓めいた感じはせず、むしろあの素っ頓狂なキウイグリーンに鮮やかな赤が散った想像図はキッチュすぎて笑えた。

あんな別れ方をしなければ…とかなんとか愁嘆場を期待していたらしいご友人は、失望した気に去って行った。

「彼女はあまり僕のことは気にしてないと思うよ」

所在なく丸められた背中に投げるのは、笑い。

 

 

さすがに花ぐらいは供えに行ったのだが、お涙頂戴の怪談よろしく「ほんとはあなたが大好きだったの」だの「腕を探して」だのという声やら気配やらのスーパーナチュラルが起こることもなく、やっぱり執心してるものなんてなかったのだ、彼女らしく。

 

彼女らしく。

 

そう、彼女らしく自分の身体さえ執着しないらしい。腕を探してほしいともいわれなかった。ただ爪を噛む癖だけは止められないらしく、たまに爪の先、両端にいびつな圧力を感じる。かりこり。


  こちらのお題を借りました。  

  Noimo サトイモ様