You want all of Oz to know your name

官能についてもうすこし厳密になった方がいいと思うんだ。
そのほうが絶対楽しい、というはなし。
「エロい」っていう言葉の対象をもっとこう、いろんな見かたしたいし、語りたいんだ。
生理的な性欲を喚起するものだけじゃない、人体の美しさやセックスによる快楽を連想にした歓喜を賞玩する愉しさ、あと好きなものが幸せになる(二次創作においてそれは往々にしてセックスの快楽によって表現される…けども)ことで鑑賞者が得る快楽。そういうものを鑑賞したいし、それについて語りたいし、それを生み出す人を応援もしたい。
 
筆の線一本だってエロくなりうるんだ。そういうものを楽しんだっていいんだ。
二次創作者たちはしばしば二次創作男性の性欲偏重文化*1を踏襲してキャラを「エロく描き」それに「性欲を喚起された」と持て囃すけども。それは実際の身体的なリビドーとは関係なくて*2、単にその二次創作者たちがそのエロさへの喜びについての表現を持っていないせいだったりする。具体的には、持ってない陰茎の状態でそれを現そうとする。
それを不自由だと、私は思う。
何を語るにしても回りくどい。自分の性欲に纏わる話なら、自分の身に具わる器官で話したほうが的確にできるし、しかし個人の性欲求・性の快楽は直接的に他者と共有できるものではない。それって感覚じゃないか。(勿論共通体験なんだから読み手の記憶を喚起することで共感は得られるだろうけど)(また、こと女性に関しては「自己の興奮を語る」ことが定型的に他者のエンターテイメントになっていて、単純な共有とはなり得ないというねじれがある、あと不特定多数の場でそれを掲げることに、リスクもないこたない)
あと、自分がセックスする相手以外の性的興奮状態なんて別に知りたくねーよっていうのは少数派なのか。性産業に従事してて、それが生産性の重要な指標だってんならともかく。
 
好ましいものを好ましいと、夾雑物を解さずに語ることは出来ないか?と聞きたい。
 
何度もいっているけど、二次創作において恋愛と性的絶頂が偏重されるのは、それが極めて「物語」のステレオタイプとして優秀(起承転結メリハリがあってエンドマークをつけやすいし、読者側にリテラシを要求しなくていい)であり、クライマックスが明確、総じて分かりやすいから。
そして、実際にステレオタイプとして確立しているからだ。「二次創作」がカップリングという言葉とほとんど不可分であることを思い出して欲しい。
そうしてその物語手法が多用されることによって、消費者はその物語にメジャーであるという価値を見出すし、またその手法による作品の楽しみ方を知っていく。そして生産者になる場合もあり消費者としてその手法をメジャーなものとして固定する場合もある。後続はそれを基準にして、それに倣うもの、それのカウンターとなるものを生み出していく。そうやって生産者と消費者が相互触発的に、恋愛物語を消費することは「楽しい・気持ちいい」と文化形成していく。
同じメカニズムで、というかその一部が肥大したかたちでキャラクタの性的消費が二次創作者(創作とは限らないのか、エンターテイメント消費者全般)によって正しい消費行動として理解され拡大していく。
それは―性的消費はいいんだけどっていうか―私が突っ込みたいことじゃないんだけど。例えばキャラクタを乳幼児という庇護対象に擬して愛でるのも同じことだけど、そして私はそれを嫌悪するけど、まだ「引っかかる点」は少ない。
 
突っ込みたいのは、性的消費が男性向けにあったその作法や言語をそのまま猿真似してること。
そして性的消費の手法や特性によって零れ落ちているものが絶対にあること。
 
だって「ドチャシコ」って言ってる女性、「シコ」という原義が対象にしている陰茎ないでしょ?漫画キャラ見て自慰行為に耽ったりしてないでしょ?してたらいいんだけど、そうすると別に彼女の性事情を開陳する必要なくない?
勿論、そこで「実際の性事情とは関係ない。単なるレトリックだ」という反駁がくる。
そのとおり。でもその「レトリックだ」という点が鑑賞に対して問題になる。
 
レトリックを理解するには、同じ文化背景、とりわけ価値規範に対しての語彙を持っていなければならない。レトリックを用いて対象を称賛することは、その語彙がどういう方向性において正なのか負なのか、読み手に理解し、共感を要求することと同義だから。そうでなければ伝わらない。
「わかる」人間に、さらにどういうものがその語彙の活用のなかで価値を持つのか強調することだし、「わからない」人間を「わからない」状態からその文化に取り込んでいくこと/排除すること。ある文化・規範を以ってその対象の価値を補強することだし、逆に対象によって文化の価値を補強する・して見せることに他ならない。先の物語と同じく、相互触発的に「シコい」という価値の意義を強めていく。
多くの追随者にとって、欲望は先導者によって掘り起こし・喚起されるもの。私たち凡百の輩は、好むと好まざるとにかかわらず、優れた先導者によって何が「快い」鑑賞であるかを指し示されその快さを我がものとして学んでいく。好ましいものに独り気づいて好ましいとその鑑賞方法を確立できる人間は、大していやしない。誰かの先導によって快い対象をそれと知って、追随者たちがその鑑賞方法を・それを賞玩する言葉を持て囃して価値を確立し、より快いものをより刺激的なものを探っていく。(全ての鑑賞における"教科書的なもの"が、かつてはすばらしく優秀で優れたものだと驚きをもって迎えられ、許容され模倣され陳腐化していったことを想起されたし)
それこそ性的欲求と呼ばれるものが、生理的に(わりと)万人に具わっていながら、何かの教唆によってその発露対象を変えるようなもので*3。
(例えばロリコンは生まれながらにロリコンなのではなく、ロリに対して性的興奮を覚える人間がいる、それが社会的にどう意味を持つかという知識と、ロリとのセックスは○○であるという物語の内面化もしくは拒絶の過程とかその辺の話)
 
要は「シコい」という表現によって享受者の望むものはどんどん先鋭化していくよ、ということ。
創作物はその規範に適応して、進化していくし淘汰もされるし、新たな表現を獲得していく。極端な話、「シコい」という言葉の乱用によってその「シコい」の頂点目指して創作物が進化していくんだよ。たくさんのうつくしさを表現する言葉を惜しんだばかりに、本来あったであろう多極が埋もれて「シコい」の一極集中が起こるんだよ。
勿論それ自体は全ての文化形成のメカニズムに過ぎないし、価値規範自体に貴賎なぞありはしない。けれど、それ借り物の価値と表現でしょう?それを我が身に即して測るチンコすら我々持ってなくて、ただ使いまわされた表現(あらゆる表現mannerってことね)を有難がってるだけじゃないのか?
いや借り物でもそれが優れたものならいいよ、でもそれを優れてるか否かを判断するその価値体系自体を借りてきてるんだよ今。おかしくね?
 
そして、これが私自身の本題だけども、射精を頂点をするセックス偏重や、射精のための性的興奮を直接的に喚起するものを称賛する価値規範を適用すると、零れ落ちるものがたくさんあるんだよ。
 
単純な話、セックス中の射精をクライマックスにするんなら、じゃあキスは前哨戦に過ぎないのか、みたいなバカな話になるわけですよ。違うだろ、そこでキスの官能を情念の重さを描線の美しさを語れって話ですよ。
射精できない生きものはエロくないのか、射精できない生きもの同士の交歓に我々は幸せを見出せない(理解/表現できない)のか。そんなはずはないだろう。そのエロさを語る言葉を私たちが見つけていないだけだろう。
**文脈が違うのに エピソードを拝借してしまうのだが、墨佳遼さんのキス絵をして「キスだけなのにエロい」ってコメントがあって。それに対して曰く「ちがくて、キスだからエロい、キスがエロいそこを描きたくて云々」という。
どの行為もそれぞれ意味やキャラクタの思い入れがあって、それを表現できることがすごいんだ。伝えられることが。そこから価値もそれに対するリテラシも広がっていくんだよ。
 
性的興奮を喚起しない快感・官能ってのはいくらでもある。そういうものを、「シコい」という表現や所謂男性向けの表現を偏重することによって取りこぼしたくない。
 
付記すると、自分のR-18作品が「シコい」といわれたとしても、それは仕方ない。私が「男性向け」の表現手法に則って描いたから。それは私が対象キャラクタの官能を見つけ出せなくて、あるいはそれを消費者に伝えられるほどの表現力がなかったから。それは仕方ないし、まあ描けなかった自分に死ねばいいのにとは思うけど、必然。逆に言えばそれくらいちからのない私でも、一定の型を踏襲すれば「それっぽい」ものは描ける、ということ。それっぽくてすばらしい、ではなくそれっぽい、という評価。
 
そこが問題なんだよ。
 
見ればそのすばらしさを感じはするけど、称賛する言葉がない場合、その着眼点や手法を称えてひろめて、結果新たなスタンダードになって、後続を生み出すのは至難の業。
他方、既にある王道をなぞるのは―そのなかでたとえ10/100点と評価されようとも―容易だし、何よりも自分のなかにその王道を表現したいという明確な意思を持つことが出来る。他者に持たせることも出来る。
 
それこそが再帰的な規範形成。
 
それが(私が主なフィールドとする)二次創作においては、ちょっとすげぇ勿体ない方向にいってるけどいいの?私はよくないよ!という話でした。
 
*1男性向け
性的興奮喚起を至上とする作品文化のことで、それこそ「シコい」という言葉を(例えそれが誇張表現であり下品たろうという示威行動の結果だったとしても)生み出した土壌をとりあえずこう呼んでます。実際には男性向けほのぼのとかあるけど、その辺は除外で。「向け」という言葉が示す通り、表現したいものよりも、表現が誰に対して力を持つか―どの規範に沿うようにつくられているかがカテゴリのアイデンティティになってるもの。
*2本当にリビドーの話だったらそれはそれで結構だと思う。
*3この辺はもう語られ尽くされてることなので、ここではその定理の妥当性の証明は飛ばします。