不安と期待とそれから手遊び

少年ジャンプ的な「肯定されるべきは選ばれた正しい主人公とその側に立つもの」というお約束に耐えられないBBAの不安と慨嘆と思考実験。

怪人細胞が出てきてスイリューが人間に留まってるこの時点で一度吐き出しておかねばならない澱のようなもの。

 

山田正紀の初期作("神"関係)と小野不由美『屍鬼』とNeil Marshall『DESCENT』とNeill Blomkamp『第九地区』が好きだって言えばなんとなくスタンスはお分かりいただけるかと思います。(わからせることを放棄した説明)

 

面白さと、世界観の合理性・"ありうべかるかたち"とは全く違うことだし、それを弁えて楽しめるんですけど(自己暗示)。一回吐き出しとかな駄目だ。

 

怪人細胞って怖いよね

出て来てしまいました。怪人と人類を隔絶する明確な線引きが。

人類から怪人へ変化することはある、但し逆はないってのがこれまでだったわけですが、ここでさらに両者の器質的な違いを出されてしまった。

人類→怪人への変化・移行が描かれるのは、連続じゃないのかと言われるかもしれないが、違うんだ。私が問題にしているのは、物語の必然で「斃される者」「滅されるべき者」と「斃すもの」「生き残るべき者」との間の話なんだ。

アトミックが怪人化した仲間(ハラギリ)を斬って殺したのは私闘ではなく正義執行になる。正しさと勝利と生存が前者に対して担保される。

隣人が怪人になるかもしれない、っていうのは変質という確固とした対象への恐怖であって、隣人も自分も勝利者/サヴァイヴァーにはなれないかもしれないっていう不安の塊ではない。それは「滅されずにすむためには?」「過たないためには?」っていう生への希求や探求を殺ぐ。

「何故滅されるのか?怪人だから」で思考停止する物語にはなってほしくないんだ。個人の願望だけど。

私にとっての希望は"怪人になったガロウがサイタマによって赦された"ことだけども(それでももっと詰めて欲しかったけども)、"でもガロウは怪人細胞を取り込んでませんでした。だから制裁を免れたのです"になったら泣くよ。マジで。

 

Bleachが物語としての合理性を失くして主人公マンセーな陣分けと決着に至った同じ轍をまさか踏むとは思わないけど、私が過敏になってしまっているのである。(blchの問題はそこだけじゃない)

キャラクターの一貫性やそれらが衝突したときの妥当な展開、伏線と思われる色んな要素をガン無視して「設定」で定められたとおりに生死を決する、そんなだらだらと続く失望をまた味わいたくない。

 

そもそも「ワンパンマン」という作品は、最強の男サイタマをデウス・エクス・マキナとした、お約束の積み重ねではあるんだけども。最初から結論の見えた物語ではあるんだけども。でもあんな風に誰も変わらず何も失われずという緊張感のないお約束の勝利だけが持ってこられるようなものはもうみたくないんだ。

 

対立するのは結局

わんぱんの世界にいるのはあくまで怪"人"。価値観や規範意識の差はあっても、意思疎通は可能。蝗のように襲来する災厄たる怪人はない。人間の文明の破壊という明確な"意思"がある点で、敵意を育て得るし、だから耐える・甘受するという選択肢はない。怪人の襲来もその存在自体も、人間の理解を超越するものでは決してない。構図としてはきわめて対称的。崇拝にしろ搾取にしろ、怪人と人間との間で非対称の関係が描かれない(多分)。(個の力関係は勿論違う)殲滅だけがある。

例えば、『ロードス島』…というか『ファリスの聖女』は間に英雄を挟むこと、英雄譚のなかを生きる人間のドラマという要素を入れることで物語として成立している。

 

わんぱんでは、対等でありながら斃されることだけが怪人の存在意義。そこだけが両者の非対称。死は怪人およびモブの定義。

人も怪人も絶対的に個で存在する。集団はあっても帰属意識はない。集団に永続性がないというべきか。その一方で「殲滅」という言葉が有効/可能になる世界。自分が生きるためには相手側を根絶やしにしなければならない。交渉や交感可能な集団意思がないから。損害を受容したうえでの集団の永続や共存(諦観)が想定されてない。

 

(集団組織という意識のうえでのクッションがあれば、怪人に従属し支配を受け入れる人間もいておかしくないし、従属をシステマティックに倫理体型に組み入れることも可能)

だから退治が正当化される。同時に、ガロウだけが許される。対等な人と怪人との間に、不可逆の"怪人化"という要素しかなく、それが結末を左右する。

両者の間には戦いが必須で、その結果勝者によって赦されることと滅されることの理由の間に、"人"という天与の要素しかない。ただガロウ編ではその峻別をサイタマだけができた。そして物語のうえでは肯定された(今のところ)。

じゃあサイタマがいなければ、ガロウは斃されたとしてその後殺されたのか?その選択の是非を問う声はありえたか?そもそもガロウを人だと定義しえたか?

 

サイタマがなければ成立しない物語だけども、サイタマがいなければ成立しない世界の話にはなって欲しくないんだ。。。

多分、わんぱんは最後まで面白い漫画であり続けると思う。ただ、その描く規範意識を私が許容し続けられないんじゃないかという恐怖がある。ワンパンマンという面白い漫画が「社会不適合だけども本当は強く正しいサイタマが、正しく敵を見極め圧倒的な実力を以ってそれらを斃し力あるものにはやがてみとめられ正当な評価と栄誉を勝ち得る、現代の若者の共感を呼ぶストーリー」なんぞという薄っぺらな解説つけられるようになったら泣くぞ(本日二回目)。

 

 

勿論、読んだら読んだで壮絶なバトル描写で意識全部持ってかれると思うけどね。展開される論理と漫画の面白さは別物だけどね! (繰り返し)

 

面白いものをただ面白いねって好きでい続けられないのは悲しいよ。

↑この詠嘆は100%正しいし、賛同する。

と同時に、面白さを肯定することと漫画の中の価値規範に迎合することは違うし、物語の面白さには「あるべきものがあるべきところへ収まる」カタルシスもあるけれど、考えて考えて突き詰めてそれで結論を出す(そして作者に否定される)ことも含まれると思う。

少なくとも私は上述したような「単純な二項対立の後に現れる約束された勝利」を喜んで受け容れられない。「普通に面白かったです」って言えたとしても。それに私は「お約束」という水が苦いともう知ってしまったわけですよ。blchのせいで。

一度それを感受してしまうと、二度目以降は過敏になる。アナフィラキシーショックですね(blchとうまく絡めたつもり)。

 

ガロウに対する「許し」は、サイタマの立ち位置を説明する面でも展開の面でも重要なポイントだし、面白いポイントのはずで、しかし、その許しが、お約束以上の何物にもならない可能性に不安がある。「師は人間を必ず救う≒怪人は抹殺」→守られるものは必ず守られ(非があろうと致命傷負おうと)、滅されるべきものは葛藤もコストもなく滅する。選択を誤ろうが怠ろうが、人間は生き残るし怪人は死ぬ。

ガロウはヒーローに救われない人々を救おうと試みた"人"だから、生き残った。と。

キャラクターが変わろうとする姿や成したことは物語に影響しないし、負けそうになると先生が救う。先生は過たない。先生がどんな原理で動いてるのか明かされない。(ガロウが死ぬべき、そうあることが正しいと言っている訳ではないです。その許される理由や原理が棚上げされて、陳腐な「人は生き残る」というお約束になってしまうことを危惧しているのです)

 

それと、私が年寄りだから勧善懲悪の素直さに耐えられない、ってのとはもう一つ別に、私の中の3歳児が「なんで?」ってずっと言い続けてる。「勧善懲悪のお約束の根拠になる善なるものは善と定義されたもので集団のなかで普遍性を持つ概念のはず。けれどサイタマは善を語らない。信念も、物語のなかで訓示される善も、何もない。何かをなすと『当たり前だろ』って言う。なのに評価されないという展開の後ろで絶対肯定される。普遍であるはずのそれが、普遍に証明されてない。なんで?」

 

サイタマは誤らない。サイタマは迷わない。その全てが、彼が何も語らないからってとこに帰着する。サイタマがほぼ唯一、相手の言を否定してまで肯定したガロウに対しての許しも、「めんどくせぇ」「趣味」「俺のほうが強いから」で、論拠がない。全部自明のこととして扱われてる。

少年向けなら、逆にこの辺アホみたいに強調してもよさそうなもんなのにな。

ジェノスあたりの語りで。

「本当に大切なものは言わずとも存在する」「善なるものはその証明さえ必要なく、絶対的に善なのだ」っていう考え方、嫌いなんです。私の中の3歳児が。善であるか正であるか、それは揺らぐ定義だし、連続善悪の狭間にあるものをどこまで範疇に入れるのか許しを与えるのか、そこを思考停止するのは嫌なんだそうです。

勿論、弁法として正しいけどね。何も語らず物語の中の絶対善として立つのは、説得力はある。何が正しいのかを言わずに、彼は正しい(けれどみとめられない不遇の人だ)と繰り返すことは、正しさの内容を明確にするよりもより広い共感と肯定を得られる。それは聖書によって証明されている通り。

そこはワンパンマンの面白さでもあるんだけど。悩まずにカタルシスに至る気楽さとか。「死にたい」って言ってる人間に対して、直接そうとは言わないけれども(「オッサンの自由だ」)、真摯に?向き合って元気出させるのが正しいっていう無神経な優しさとか。理解でなく支配でなく共感によって肯定される安心感がある。それはアンパンマンをはじめとするいくつもの既存作品のパロディ、お約束の共有によってもたらされるものだから、もはや必然ともいえるものなんだけども。

 

人であることを否定しないサイタマは問答無用で格好いい。

ただそれでも、作中人物までが崇拝という無理解ではなく、共感や理解を経てサイタマをみとめていっている過程が、どうにもこうにも引っかかるのだ。そこが、明示されない規範を理解し得ず自明の価値規範を"弄る(つまり相対化・茶化して破壊する)"ことしかできない読者と、作中人物との乖離。

 

 

あー私が未だに覇者のあたりをうろうろしてるの、この辺も理由のひとつだな・・・。7巻あたりで独自解釈して思考停止してれば、この一番苦手な部分直視しなくてすむから。

 

 

 

 

*ここで言っている漫画のなかでの倫理というのは、その世界観においての倫理。それとリアルな自分の倫理がバッティングすることは全然気にならない。例えば少年漫画blchにおいて「子供に死神という危険な稼業を課すなんて大人としての責任がなってない」とプンスコする方はいらっしゃいますが、私はこの点は許容可。漫画のなかでは"子供は庇護されるべきもの"という規範意識はないし、それというのもメタな視点で"少年漫画においては読者=少年が感情移入可能な年弱な人間がスリルや興奮の中心にいなければならない"という制約があるから。

←じゃあバトル漫画において「倒されるべき敵」がいてもいいじゃねーかというツッコミがあると思いますが、物語の帰結まで左右してしまう制約は許容できないんだ。何をしても何を考えても「敵」である以上その地位は動かない・最終的に殺されるべき、ってことになると、物語が動かないものになる。葛藤も対話も、全部が無駄になって展開に影響を与えないことになる。最後に振り返って、「あああのキャラのあの台詞が主人公の勝利への努力にこう影響したんだな」って思えるのと、「なんだかんだ言ってたけど結局敵だから死んだね」って言うしかなくなるのじゃ全然違う。

 

くわえて、その倫理に一貫性がないとか、優先順位が狂うのを見せられると嫌っていう気持ちはある。例えばサイタマは「助けを求める他者を怪人から守らねばならない」という規範を持っていて、そのうえで「戦いを楽しみたい」という希望がある。後者は前者に優越しない(優越するのはボロスで、彼はサイタマによって倒されている)。この優先順位が、何らかの切欠(改心の転換点)なしに突然ひっくり返ると何でやねんって思って楽しめなくなるのです。

 

 

ジェノスとフブキのこと

 

話は変わって。

ジェノスについて不毛じゃないかと思うのは、師が最強だと誰よりも理解してるのに世間の誹謗や評価(それは不当なものだから義憤としても正しいけど、弟子自身世間を絶対的・価値あるものとはしてない)から師を庇おうとしたり、学びようがないのに「師弟」のステレオタイプな距離・様式を真似てみたり、奇妙に「彼氏」的な振舞いをしたりすること。それを師がその底無しの包容力で許容してること。

それは意味のあることなのか?ひょっとしたらジェノスはサイタマに対しては何も与えられてないのではないか、弟子が見ているのは強さの虚像ではという恐怖がつきまとう。片務的な共存ですらなく次元の違う存在。そしてそうであることをジェノスが盲目的に受け入れているのではないかという、そういう結局存在の関与が成立していないんじゃないかっていう不安がある。昔一度語って、「まぁあのこ今赤子みたいなもんだから」って結論付けてるんですけど。

 

その暫定的な結論とは別に、ひとつ手段として、ジェノスがフブキと本気でかかわったら面白いと思うんですよね。

一回フブキに手を伸ばして、拒絶されて衝突して妥協して徐々に受け容れて受け容れられてみろと。庇護を嫌悪して、なのに弱くて視野狭窄で姉しか見えてないことぶつかって抵抗されてみろー。同族嫌悪とbrothering(←先に蒙を啓かれた者としての cf.対アマイ)との間で悩んだりしつつ、それでサイタマ以外の他者への頑なさを解いて、あわよくば他者が共に変わっていく快さを知ればいい。

・・・惜しむらくは、ジェノスにはフブキに本気になるインセンティブが全くないんですけどね。先生さえいればいいっていうこだから。

 


*じゃあソニックでもぷりズナーでもいいやんってなるけど、違うんだよ、先生を侮っててかつ護られることに慣れてる人間でないと。つまりキャラクター造形としてはすごく似通ってるのに、最重要事項(サイタマ)に対する敬意の払い方が真逆。そして護る/護られるという一点において噛みあい得ることしてフブキがあがる。

 

 

それはそうとしてこの二人には「最後感」が全くないんだ。

互いの最後の存在にならなさそうだし殺し合う程にも至らなさそう。よしんばジェノフブ的なイヴェントを一通りこなしたとしても、それは人生の一面の階梯の一つでしかない、みたいな。10年後の同窓会で結婚指輪してる片方を遠景に、もう片方と「あの頃のお前たちってさー」って和やかに話が出来る、そんな感じ。

アレか、遅れてきた青春か。想いも迷いもちゃんと消化して、糧にして(って言えるくらいに思い切れて)。もしくは共闘出来たら成長の証みたいな。それに、失敗しても人格の全てに絶望することがないよねっていう安心感がある。彼らに他のような絶望感がないのは、最後に「先生がたすけてくれる」っていう絶対のセーフティネットがあるから。つまりハゲマント偉大。

 

容赦なく別ジャンルの話を持ち込む

要砕だと、ふたりは互いの最初でもなければ最後でもない(彼らの生自体がどこかで中絶してたまたま互いとの関係が最後だったということはありえるけど)。幸せや到達を求めて行き着く場所でもない。ただ迷いも憎悪も諦念も全部が赦し許される場所…であればいい。今際の際に、「処分してくれ。中を見るなよ」っていって相手に対する積年の愛の言葉を含んだ手紙入りコインロッカーの鍵を渡せるような。

まぁこの二人も夜一様と鈴虫の彼女っていう絶対墓標がいるわけですが。