to be born or not to, that is the question.

吾桑はサイジェノ、ジェノサイどっちでもいい派ですっていうかいつだってそこには拘らないクズ雑食です。

 

 

先生が強くなければ彼は先生に惹かれないのか/強さだけに惹かれているのか、ってのがジェノサイジェノの1つのテーマだと思うけど、惹かれるその感性自体が確固とした唯一のものじゃないんだよね。強さへの希求があってその目標となりうる先生がいて、それで何を目指せばいいか近づくための手段は何か、道ができたことに歓喜したのがジェノス。彼にとってみれば自己形成の要になったのが先生。先生を発見しなければ別の価値基準で誰かを選んでいた(いや別にこれから選ぶ可能性もあるけど勿論)かもしれない。でも彼は先生を選ぶし、そして選んだという事実によって強さへの価値をほかよりも高めていくのがジェノ→サイにおけるジェノスだと思う。そうやって帰納的に成立する愛もあるよって話。

(あいってゆった) 

 

要はジェノスはサイタマに出会って生まれなおして、サイタマを透して見る世界をもう一度受け容れている、受け容れる自分をつくり直している最中なんだよって思ってます。

 

↓司馬遼と坂本竜馬かっていうtwitter語り

「だいきゅうちく」みたく、ダークマターの生き残りがいてそれなりに社会を築いて、人間にとっては交流のない理解不可能な存在ながら無視できない存在になったときにさ。そうなるまでには当然数世代、数十年の年月が過ぎてるんだけども。

自分たちが漂泊の民となる原因となった、半ば伝説化した彼ら自身のかつての頭目とその好敵手。それを祀ったり崇めたり(「いま彼さえいれば」「始祖は斯く歓喜した」)呪詛したり(「彼さえいなければ」「彼が戦いなど望まなければ」「敵は大いなる災厄であり」)することがそのコミュニティの一種のアイデンティティになってることに気づいた学生。(無気力系。同じテーマで競うのが嫌だったからマイナーな対象を選んだだけとかでいい)

で、最初はフォークロア形成の過程とか伝達方式とかちゃんと学究的なことしてるんだけど、あるときそうやって伝わってる好敵手―それは必然的に地球人でなければならないはずなのに―こちらの社会にはその人物像が一切伝わっていないことに疑問を抱く。

 

そこで、伝承内容自体を検証していくうちに、たこ焼き食べながら「彼はどこまでも人間だったから。派手なバックボーンもステレオタイプな根性論だとかがないものを、凡俗は物語に仕立てられないものさ」て言って笑う元科学者だとか、20文字以上しゃべろうとしないサイボーグが「あの方は強すぎた。誰も及ばない程に。貴様ら畜群が理解も共感も拒絶するほどに、強く、人間離れしていらした。だから結局は無いものとして、人間の歴史として刻まれもせず、…ただ先生は去っていかれた」とか長文語りするのに出会えばいいと思うっていうかそういうの読みたいです。