蹴躓いて這い登って

”バディ”と我々読者のリテラシーとについてつらつら。

inktoberのお題で「buddy」があったので考えてたんだけども。

 

当たり前だけど、娯楽作品におけるバディって難しいんだよね、現実と同じく。現実においては対等な協力・協調関係を構築するのが難しく、フィクションにおいてはその面白さと加害的・極端苛烈でない強調とのバランスとりが難しい。物語に起伏をつけるために性格や特質に相異をつけて描くせいもあって。さらに(私がよく読む)JUMP系漫画には確固とした主人公やヒーローがいて、その相棒は補佐役にならざるを得ない*1。必ずふたりは非対称。

 

◆ブルーとか石田とか角ヶ谷とかさー、主人公が思うまま(そこにも当然葛藤はある)に振る舞う一方で彼らはそのケアと代替としての喪失と成長への助言≒規範への順応etc.のroleを要請され当然にそれを受容するさまが描かれる構図はどうにかならんか。いや極めて優れたレイアウト(黄金律)だから王道になっているのだが。"相棒"としてみたときにその片務性にヒリヒリすんのなー…

 

それは物語を面白く万人に受け入れられやすくするための適正な方法論なんだけども。

じゃあバディとしての面白さ、その関係を賞玩するには?と。

私は、そもそも非対称な二人が限定された状況で比較的明確な共存契約関係―これ自体には権力勾配があってよい―を結んでるところ出発するパターンのほうがマシになると思ってますな。

だから逆説的に、対等でない女男/有色人種と白人/雇用主と被雇用者…*2のコンビに秀逸な関係が描かれる/鑑賞する我々が消費しやすいことがままある。私はそう感じる。

珠晶と頑丘とかマッコイとキシ口ー/王子/パイクとか。 一撃は少年漫画(成長譚)ではなく"俺tsuee"(+絵がスゲエ)という別カテゴリなので……師弟はバディではなく神と崇拝者。論外。

 

無論、そもそも"buddy"という言葉が文脈によって非常に融通無碍に変化することと、その意味に"気安い・男性同士の・共同するもの"という男性を主体とする社会観を背景にした個人の紐帯を意味するニュアンスを帯びることが前述の難しさの一因になってる。だから男女をしてbuddyと呼ぶことに注意が必要になる。

ただ単に男女をbuddyとしたとき、その女性の方を、①きちんと個人として並立させているのか/②男性に並び立つものとしてピックアップしているのか(男女が並立しない前提でその一個体に属性付与している)/性愛を紐帯にしているのか/補佐他のジェンダーロールを以て並立扱いされているのか…いずれで描くか選択肢がある訳さ。本来はそのどれをbuddyと呼んでもそれぞれの文脈において誤りではなく、ただここでは基本的に①の用法をありえる理想として使ってますよ。

 

 

 

 

【以下しばらく『エリア51』のネタバレ配慮無し】 skip➡

『エリア51』はそもそも作者がバディを描くにあたってバディ古典映画を参考にしたとか言うくらいだし*3、その辺の描写がすごく巧くておもしろい。まったく対等でない二人だけど、その優劣位に理由と必然性と凸凹の噛み合う面白さがある。なにより片務関係・奉仕を対等な二人の関係だと称する欺瞞―と我々がいやになるほど目にする奉仕の称揚と顕彰―が素直には描かれてない。

さらに、マッコイの物語を終わらせるときにそこから派生するキシロー(や他)の物語に向けてこれ以上なくきれいにスライドする理屈付けになってる。キシローの行為は依存であり献身であり継承という片務・一方通行のものでありながら、それは報恩であり(発生時の非対称性からの回復)弁済であり(力の非対称性からの回復)娘=より弱いものへの庇護の順送り(代替)という、それはもううつくしい双務関係の編成であり、さらに怒りの実践という選択があることでキシローの自己実現として完璧な物語の完成になってる訳ですよ!!!!!なんなん。

 

さらに余談。

一読したとき、王子はともかくパイクの退場はちょっと不満―没入消費のmannerとして悲哀を抱えるという意味ではなく―・残念という感情を持ったんだよ。「あまりにマッコイに都合のいい献身的な退場であり、一個のcharacterの始末としては投げやりではないのか」と。

でも再読すると「かっけぇな!!!」になる。何故か。

パイクの構成要件である、マッコイを愛し守る(意思を継いだ)道具という本懐を果たしてるからですな。ちょっとズルイ*4言い方になるんだけど、王子にしろパイクにしろ、その最期のためにデザインされた人格と諸設定が見事にそこ収束している(作家によると実際の物語の組みたて方は逆らしいのだが)。しかも、それが読者を納得・感服させるほど、その描写が"カッコイイ"。読者が感受し美と認識する、物語の律(王道展開)と演出を完全にものしている。

 

さらに感想。

パイクはあれで物語からは退場するけども、あの世界において死んだとは限らない(そこを否定可能な状態にしておいたことも初見の不満につながるわけだけども)。"神性を帯び"た銃の付喪神が自分の意思による破壊で死ぬとは思えず、その場合、他者に拾われ狙われ騒動の元になり最悪ドッペルゲンガーに利用される…の類の話はいくらでも思いつく訳よ。あるいは思い出だけを抱いてまどろみながら沈没街とともに沈んでいく…ってなに超絶格好いい!!!なんなのそのハードボイルド。

そういう、自分の生に対するドライさと容赦のなさ、持ち主への愛の深さに痺れると同時に、そういう物語の沃野をあえて放擲して"マッコイの物語"たる『エリア51』を完璧なかたちで閉じてみせる久正人の手腕にも脱帽するしかないじゃん???

閑話休題。

ネタバレココまで

 

とにかく、そういういわば"埋め合わせ"によって探偵と助手の長短優劣互助をうまく噛み合わせ、同時にその情の濃さも見せてくる。かつ、その表現は我々がカッコイイとすでに認知している常道の方法論と価値観を巧みに使って演出。とにかく巧い。センスがいい。

 

 

あとは、物語の手腕とバディといえば『白暮のクロニクル』(嘘です敢えて選んだのではなくタイミングよく思い出された作品というだけです)

これなー…困るパターン。

あかりと雪村の主人公コンビは、いい造型だと思う。だから以下は私が引っかかってるという話に過ぎない。

本当に整った過不足のない、物語を描くにあたって最適な造型だと思うんだよ、両者。両者共に生き相手に積極的に関心を抱く理由付けもうまくつけてある。そうでありながら安易な相思相愛オチ=代を超えた恋愛の成就ゆえにはっぴー="さぁ感動せよ!"=えんど*5に落とし込むことなく、雪村~人間一般の話で結んでる。

 

でも、…あかりの物語はなんか薄くない?いやあくまでバディモノとして捉えたときにという話で、あの観点で描かれたあの物語にとっては不足はないし無個性無意思ということはないんだけども。しかも薄いといっても、彼れの意思決定・選択(罠に嵌る点にしろ免許にしろ供血にしろ)の話はちゃんと描かれてる。

あの社会における人間一般の代表として描くため+狂言回しのために、少数者に対して適切に無知で人間一般に対して非常にやさしい。雪村に対して情も抱く。勿論切った張ったしない。祖母の人生に過剰に肩入れしない(私としてはこれはむしろ好ましいのだが)、その一方でそれによってもたらされるトラブルとぶつけられる雪村他の情には柔軟に素直(obedient)に受容する。凶悪犯に"利用された"のも相手の狡猾さゆえにでありその異常性に親和したわけではないし、反撃も倫理と生存欲求に則ってのもの。快楽に耽溺することも、博愛と親近感以上の執着に過つこともない―――これでドラマになるほうが不思議じゃん。

…あかりいいこなんだよちょういいやつなんだよ(親戚のおばちゃん風)

 

私が手を汚さない登場人物があんまり好きじゃないばかりになぁ。ただ、娯楽作品によくある、女性に許しとケアのすべてを負わせる(かつそれを善/佳いものとして描く)描写をちゃんと省いてる点は評価すべきだろう。(聖女規範の強化表現にはこの1000倍くらい非難を投げてただろう) わかっちゃいるんだが。

 

繰り返すけど、あかりの劇的な何かがもっと必要だったかといえば、あののほほんとした・社会と構築される制度を描いた・その閉塞感と人間を描いた・そのなかで傑物がいくらもいて・多数による人間模様を丁寧に描く漫画において、まったく不要だったという結論になる。あるべき場所にあるべきものを配置するために、あの造型に過不足はない。何をどう考えても作者の戦術は適切であり、さらに女性にまつわる神話を適切に排除してさえいる、端正な物語であるという結論にしかならない。

でもさーなんかさーあと一味欲しいんだよこうピリッとしたなにかがさー。

 

―というこの辺の不足感を埋めるのはむしろキャラに耽溺する二次創作なのであろうが、キャラに惑溺して別の観点からの物語をつくるのではなく、物語の不足を埋めるためにcharacterを掘り下げる―しかもこの場合"不足"は文字通りの不足ではなくありえた+αへの期待である―のは少ないからな…私はこれではできない。あー広義の夢小説とか書ける人に期待すべきところかーそんなひといない。(多分。二次人口が少ないから)

 

キャラへの耽溺といえば、そういう風にあかりの掘り下げが甘くなったのは人気*6のせいなんじゃないかな…そしてその人気というのはつまり…一部は容姿に拠るものではなかったか。……ゆうきまさみ氏、もう少し頭の上半分大きく描いてくれないか。よりによって主人公コンビにその癖が顕著なんだもんよ(口を大きく開くのと直毛ショートのせい)。これはよくない。。。

 

 

 

あとぶっちゃけた話すると、吾桑さん、雪村か茜丸が竹之内を殺してあかりがそれに関与してればたぶん大歓喜その他一切不問だったよね多分。父殺しする物語はいい物語。竹之内が死ぬべきcharacterだったか否かはおいといて、父親に象徴される既存の体制は全て打破すべし(極論)。(冗談ですよ)

ただね、男女バディと父殺しという点で秀逸なのは『百鬼夜行抄』だと思ってて、あれは父を殺したがゆえに(おそらく)生涯をその贖罪に費やす子供と彼れとともに生きるいとこの話なので。まぁ恒常的なバディというと律と青嵐であって、司は窮地での救済者、相互扶助とポテンシャルのある共存者なんだけども。(何故共にありそれを選び続けるかの根底?端緒?には血縁主義があるんだけども、それを自分の選択として再肯定する司のやさしさには隣人一般への惻隠の情がある)

ただあれは家父長制の責任やホモソの価値観を、父がいないことと主人公が妖異に対して弱者であることできれいに排した物語。だからうまくできてる。という訳で物語における父殺しは正しい。

 

 

 

*1 今更だけどblchに対して、"ルキアが補佐でもトロフィーワイフでもない、そこがいい"みたいな言説が初期にはあったはず。何でああまで変質したんですかね。

*2 『ナイチンゲール』2019 の評判いいよね。見なきゃなぁ。『おだまり、ローズ』は、そこにある種のシスターフッドがありはするけどやはりBuddyと呼ぶのは憚られるな…

*3 本人blogに書いてあったんだけど詳細は失念。…いや言及するなら読み返すべきなのはわかってるんだけど、あんまり読みたくないのよ……男性エンタメ業界人のダメなとこが凝縮されてるから………

*4 因果と作者の意図を無視し、結果からトートロジックに書いてる

*5 一部の読者が二人の性愛関係とその結果子孫における血縁を考察し(それが可能となる描写である)てることは知ってるよ。そうであってもいい。ただそれをこそ完成された正しい結末であると主張する、生殖前提の異性愛規範はクソ食らえ。

*6 全ての漫画家がライブ感と人気への迎合のために登場人物を動かすとは思ってないけど、何かがあれば多少は何かあったと思いたいのよ。まぁ、じゃああかりがすごくかわいくて大人気でpixivにはあかりのエロ二次創作があふれてます!女性の長身と太眉とetc...が新たなフェチ対象として大注目でっす!ってなってたら―なってておかしくないのが今のオタク界隈だろ―それは問題だし、そもそも手をつけてなかったと思うんだけども。

 

 

 

ところで関係ないんだけど、『白暮~』の二次創作がやたらオタクメインストリームから隠れてるような気がするの、何故?いやこういうのは観測範囲によるものが非常に大きいのでその事実認識自体が怪しいんだが。

狭い観測範囲で、やったらうまい人がpctblに複数いるんだよね。で、pctblのその件数に比してpxvは少ない。―――ふつうpxvで過疎ってたらpctblなんぞ霞も浮いてないと思うんだが。(例:トリブラ)

たまたまの、その二次者たちの個人的な選択の結果なのか、なんか隠れないかん事情があるのか。実は舞台化とかドラマ化とかしてて、半生扱いとか?

…あの辺とかあの辺が歌って踊ること考えたらちょっとおもしろいな😆


「面白いもの」をつくることと我々がそれを感知することの間には隔絶がある

 

愚痴であるよ。

 これは正しい。すでにある価値規範を"疑わない人"の、規範に迎合した物語に、現実を生きる人間がこころうたれる訳はないんですよ。創作を単に"芸"として捉えたとしても、そこに世阿弥のいう"花"があるかを考えれば、それは明らかでしょう。

 

―――と言いたいところなんだけども。それはまぎれもなく真であるんだけども。

人間は娯楽(面白いもの)にそれほど真摯に向き合っていないので、面白いものをきちんと面白く感受し面白くないものをその逆と感受することができるとは限らない。また創作物は「面白い」ではなく「気持ちいい」という作用もあり、それはむしろ規範性に則ること・思考停止してそれに服従することでこそ感受できる。

(無論瀬川氏はそんなこと百も承知であろう。彼れは人間一般なかんずく消費者に理知と真摯さを期待するような人間じゃない。ただ、ものを生み出す人間として彼れの述べたこの原理は確かに在ることを書き表しておくべきだし、我等有象無象もそれを読んで腹に落としておかねばならない。我々は脳を捨てた畜群ではない。…あと自分をくりえいとゎーだと思ってる人間への罵倒として結構有効だと思う)

 

それで我田引水して『エリア51』他久作品なんだけども。

久正人氏、エンタメ業界男性のご多分に漏れず女性のobjectificationは凄まじいし、しかもそれが正の価値を持つという旧弊どっかりの価値観をものの見事に作品に注ぎ込んでしまう。(例えば、ゼウスにあそこで「いい女」と言わせる必要があるか?それが賞賛になるか?何故?主神としての業を背負って責務を果たして世界を守った個体に対して、自分の性的関心の果ての評価を下す―judgeは下すものだよ?上から超越者が為すことだよ?―、それが神の神に対する賞賛として正当な訳ないだろう、いくら神代から来た男性優位社会の男神であっても。あと母性規範と愛(モノアモリー)の賞揚と…みたいな幻滅ポイントが大量にあるんだよ、『エリア』に限らず『ジャバウォッキー』にしろ他にしろ。本人の発言は言わずもがなだし)

 

だけど、つくる漫画はべらぼうに面白い。構成が神がかってる。模倣を含むとはいえ陰影表現や演出や台詞回しがちょうかっこいい。(模倣だってセンスがなければ適切に配置できやしないのである)

 

その格好良さ・面白さには我々読者の側が感知できるかという問題もあって。

"愛が尊い"という価値観無しには愛を描いた物語を以て感動することはできない。すでに共有している規範に則って価値を描く/価値をみとめることは、そうでない価値を描き読者に認めさせることよりは容易い。

久氏はそういう、既存の「正しい」―かつては正しく、しかしすでに現実を生きる人間はその正しさが非公正・害悪だと気づいている―価値規範と方法に則った表現でかっこよさ演出するのがメッタクソ巧い。

「男は~」「女は~」という格言めいた断定口調は、古典的ハードボイルド探偵モノでさんっざん我々がそのかっこよさに"目覚めさせられてきた"=規範形成されてきたもので、近年それが男性優位社会における様々な害悪をふくむと検証され評価再考されている"かっこよさ"なんだよ。無批判に出すべきものではないし、もはや読者はその"かっこよさ"を疑う時代にいる―――はずなのに演出技法とセンスが卓越している(+漫画が面白い)ので飲み込まされてしまう。

 

 

じゃぁ氏が旧来の価値観をなぞるだけかっていったらそれは勿論誤りだ。

バーコードハゲデブオッサンを物語の力(≠設定)と演出でとてつもなくかっこよく見せ、読者に憧れを抱かしめる。そういう"啓蒙(もすこしマシな言い方ないんか)"もできる漫画家。

―――ただ女性表象に関しては凡百の女性神話を無検証(いや無検証ではなかろうが見てる方が嘆きたくなる程度にはアレな)で差し出してくる、という……………まぁよくあるぱたーんですね。

 

 

別の例だと平野啓一郎。

確実に高い見識と知性と社会に対する真摯な姿勢と理念的公正に高い感受性を発揮する人間。(端的にいうとまちがいなくかしこい)そしてここ10年間はまず間違いなく(たぶん)日本でもっとも真剣に「カッコいい」について―そしてその価値観を支える権力勾配についても―考えてきた著述家の一人。いやそんなことはどうでもいいんだけど。

要はあれほどの知力を以て、伝達するにあたって対象と伝達先の人間を深く理解しかつこの時代において過たぬようにしている(political incorrectly に振舞わぬよう配慮している)人間でさえ、議題が規範に照らしての正しさになった途端、規範の外にいる人間、既存の社会が不可視としてきた弱者(のその不当さ)を踏みにじり既存の"正しさ"を繰り返すだけになることがある。無論、こちらのほうが頭悪いので氏が誤ったかの判定やその論証を間違うことはあるが…いや「今、女が踏まれた」くらいのことは判別できるよ。そしてそこで踏んでいいという判断をなさしめる規範が、女性を含む個人の社会において誤っていることは。

伝わりやすさと飲み込みやすさのために、愚かかつ見目麗しいステレオタイプに女性表象を使うこと。文化発展のダイナミクスを賞揚するために、搾取された少数者の抗弁を否定すること。そういうことをやるんですよ。このおっさんは。

 

 

 

いやなんかすんごい脱線したけど、

そういう古く、広く共有された規範に則ってこそ、正しく優れたものであると多数によって判定される。表現者が対象の高い価値を伝達するために伝達先の社会で高く価値をもつものに準えるという表現者の問題でもあり、享受する側が既知の価値基準がなければそれを評価できないという消費者の問題でもある。

 

いずれにせよ、クソみたいな旧弊そのままの価値規範に染まった思考停止を抱えていても、人間の思考には多数の並列がありまた鑑賞者の側のリテラシーが未発展であるために、ある人格がが鑑賞者のなかに「面白い」という感興を抱かせることが可能だという悲しい話。