村の慣習 vs 波乗り液漏れ雑殴り vs イコジン

同人界への叱責!みたいなお気持ちはてなブログへのお気持ち返しです。元記事もこれも読む意義があるかって言ったら無いです。ろくな題材じゃないし性根の悪さがにじみ出ること請け合い。

ただ明らかな"誤り"の指摘だけはしておかないと収まりが悪いので。

 

つぎはぎしたので読みにくい文章になっちゃった。そのうち直…さなさそうだなぁ。

 

元ネタはこちら

とある商業漫画家からBL二次創作同人の民へ告ぐ

 →雑な要旨(≠要約):商業漫画家である私は一次創作作品を共有基盤にしたり性愛妄想を当然とする同人交流文化に違和感と嫌悪感を持っている。それは異常かつ間違い。考え直せ、同人女。あと二次創作で儲けたら原作使用料払え。

 

 

はじめに、私は基本的に下記のように考えている

・二次創作は原則的に同好の士およびある範囲内の常識が通用する集団の中でのみ共有すべきものだ。これはエロに限らない。(エロの定義にも揺らぎがあるがそれはここではおいておく)

・原作へのリスペクト、並びに作者の意思を尊重するための、また制作者の利益を損なわないための各種配慮は当然に二次創作者に要請される(利益が何かどう損なわれるか誰が責任者かは当然に議論があっていい。どっかで折り合いがつけば)

 

ついでに

・創作物(ここでは特に二次創作の元ネタとなりうるもの)の鑑賞方法は、キャラ消費特に性愛表現に特化したキャラ賞玩であるべきではない

・原作があってもそこから物語・解釈・表現・批評と批判等、二次創作者が創造性を発揮する場所は確かに存在していて、それを享受する人間(読者)はその創造性にも対価を払うべき(ただし主に商業ベースの原作と異なり、同人で取引されることが多いのでその対価(が正当かどうかの評価)にはかなりの曖昧さが…)

 

 

 

なので、個人の単位でいうと当該記事に概ね賛成なんだよ。

「二次創作を当然のものとし、漫画と見れば(二次創作の代名詞・主眼点扱いの)カップリングを論じそこから集団形成する"同人女"のあり方は間違っている」ゆえに現状の"同人女"界の常識を考え直せ。「原作者は嫌がっているぞ」→そこをケアしろ。プラス、原作使用料を払え、と。

 

ただ、例えば誰かと議論するときに思考の土台にする、根拠にするにはあまりに粗雑な論。

 

この記事を、色々削ぎ落として「一人一人が原作に敬意と金銭的対価を払おう」みたいなお題目にして個人の倫理観に訴えるのなら、それは正しいし間違ってない。私はこの意見にかなり近いし。
しかし元の記事は色々雑過ぎて……共同体形成と相互承認の共有幻想としての原作利用は嫌、かつそれは間違いだと仄めかしているにも係わらず、如何に何に照らして正しくないかはちゃんと記述していない。「敢えて」BLを名指ししながら他との比較及び自己のバイアスの検証が示されない。定義がない。
勿論、芯にあるのは「作者と原作を尊重せよ」なので作者=この漫画家が嫌だと思ってるからイヤ・作者が同人女をそのように捉えていて嫌悪するし配慮を要求する、で筋は通る。通るけど、じゃあその要求自体は社会的に正当・妥当か?
―――芯が個人の嫌悪感なので正当である必要さえないのだが、じゃあ要求された相手が従う正当性・必要性・義理、そういうものはどこにある?この漫画家は固有名詞をあげずに―どころかBL二次創作文化の担い手の定義と範囲も曖昧なままに、さらに"同人女"という呼称を使う始末なのだが―読者の異常性を指摘し改善を求めている。それに読者の中のマスが従うには、そこに合理性を持ってくるしかない訳よ。だって個人対個人の情のやり取りじゃないんだから。
「お題目なら結構」というのはこの点で、「皆さん、原作者は人です。人だということを念頭においてその人の嫌がりうることをさけましょう。この場合原作を踏み台にした文化云々」と読者を漫画家をリスペクトする個人へと教導し、個人対個人の情による譲歩を狙う戦略なら意味がある。けれどこの記事はそれを意図していない。"文化形成は異常""正しいけど正しくない"と、何らかの価値判断に照らしての正誤で"同人女"を断罪している。
けれど、その価値判断の元になる価値規範や論理的合理性の記述はない。
仮に何らかの判断基準があったとして、その価値判断はそもそもこの関係に適用可能だったか?という疑問もある。
個人が個人を、特に好きな作品とその作者を尊重するのはごく自然かつ在るべき社会の基本原則。しかし、経済価値が介在することで両者の関係は個人対個人から生産者対消費者に変換されてる。消費者は質・供出コストのまちまちなリスペクトの代わりに金銭を対価として商品を購入するし、商品の無形の価値は法で守られている。謂わば、個人対個人の関係を解体し金銭授受のための仮想(法)人格を構築することで貨幣経済を成立させてる。それがなかりせば、作者の気持ちに購入者が見合う与信と貨幣対価と気持ちを要求されるような。(しらんけど、濃い同人交流文化内での同人誌販売がそういう感じなんじゃないか。知らんけど) そこであれば作者は"原作を踏み台に"しない読者を選べるし、リスペクトを受け取れる。しかし件の漫画家氏はそういう煩雑さを削ぎ落とす経済原理に乗って作品を販売している(らしい)。
にもかかわらず、この作者は人としての尊重(最低限のことだが)の部分を要求している。価値ある作品を与えた以上それを踏み台にしない誠意を捧げる若しくは作品を拝受するファンの構図を期待している。
そりゃ無茶だよ。
無論、作者がひとである以上、実際には作者を個人だと意識することでその意思を尊重しようとファンの多数が考えるようになることは可能だし、人道の問題としてそれを否定してはならない。でもそれには匿名のこんな粗雑な論理の記事は効果的じゃないよね。
匿名の問題さらに。
論立てが無茶苦茶なのだけでなく、匿名なのも―求めるものが配慮ならば―戦術的におかしい。
「作者を尊重するファンであれ」「さもなくば原作者の私はお前を嫌(っている)うかもしれないぞ」これが要求と脅迫として成立するには顕名が必要。どこの誰だかわからない漫画家に嫌われることが、読者の個人の価値を損なうか?考えを改める契機になるか?
いや無名作家の場合、伏せることで実際より大きな影響力を持つことはありうるが、逆に"自分を存在感のある漫画家だと思ってる無名作家""とりあえず同人女の社会にねずみ花火を投げ込みたい迷惑野郎"のなりすましも疑われるからね。
用語の定義の欠如、罵倒を使う無神経さもそこでさ。真っ当に批判しようとしたらそんな用法しないだろう。何だ同人女って。定義しろ定義。
有体に言って、ミソジニーとBL嫌悪(男性愛および男体が性消費されることへの嫌悪)に駆られて―――あるいはそれすらなく、ネットの俗情に阿って対象を同人女→女性BL二次創作者に定め、説教あわよくば女叩き扇動したいだけに見えるんだよなぁ。whataboutismに陥りたくはないけど、記事の中にそもそも自分がミソジニーを抱えていないかの検証や二次創作で当然にありうる男性向けエロ(まさか交流文化がないなんて言わんだろう)への言及がない点、まぁ社会公正の観点からは'正しくない'。
繰り返しになるけど、勿論それでも論立てがしっかりしていて合理性がちゃんと示されていたら、そこはそれ、で議論できるんだが、この記事は内容薄いわりに情念が浮き出てるからなぁ…一応指摘しておく。
ならば最後の行はといえば、これもなぁ…制度構築は無理―容易ではない―でも、使用料は決めて要求すれば意外と集まるのでは。同人屋にサクラ扇動者を何人か入れといて折々に払っただの当然の義務だの言わせて奥付に明記だのさせとけば、慣習にはなると思う。(それこそ村の文化で)
ただそれやると、多数は今以上に利益が出ないやり方にシフトするし、少数は使用料を払うことを盾に更に野放図な広告宣伝と原作軽視を量産する。
それは意に沿う結果か?と。
私は物語が主体の漫画や小説では"二次創作は原作の広報になる"説を疑ってるし、創造性の比較的少ない表現物は原作の利益競合になると考えてる。(後者はまさに海賊版)
しかし二次創作の儲け≠原作の機会損失分であるがゆえに二次創作文化の興隆を否定することは原作の利益を増大させるとは限らない。また、"同人女"嫌悪は二次創作文化の多数に正の規範として共有され排斥につなぐ「べき(must.can両方)」ものではない。嫌悪を抱かない作家もいるし、キャラ集めゲームのような物語の比重が小さい創作物では広報・ファン拡大戦略に二次創作を最初から販促戦略に繰り込んでいる。
原則部分では賛同する私がみてさえ、この意見文は粗雑過ぎて"使えない"。
そもそも、この自作品が同人女に踏みつけられてる商業漫画家って実在するのか?その当事者がこんな粗雑な思考するか?
本当に自分の漫画への配慮を求めてるなら、その"契約"とやらに触れない範囲で有効なやり方はいくつかある。そうせずに同人女文化を「脳死」と呼ぶのはそこに啓蒙欲なり蔑視(罵倒を叩き付けたい欲求)なりがあるからでは。あってもいいが、そこは直視しないと個人の問題なのか社会として解消すべき問題なのか変わるので、これを問題提起として受け取った以上指摘しないわけにはいかないのだよ。

 

前者であれば、必要なのはマスへの訴えではなくカウンセリング。

 

 


あとさぁ、ついでなので我田引水するけど二次創作者はもうちょっと棲み分けの努力してほしいぜ―こういうのは言って届く人間はとっくに配慮してるし配慮しない人間には届かないのだが。

 

例えば映画の正式/公的に利用されている通称をつけて特定のCP創作を流す行為。

BLは隠れるなの人がよく糾弾する、"同性愛だから""夢だから"まして"その担い手が女性だから"が理由じゃないよ。それが他のファンの妄想と競合して余計な衝突を招き、ひいては原作への愛着を削ぐ→原作の利益減少の可能性があるからだよ。

 作品名「~」を付記してABカップル妄想を流す→「~」ファンのうちAB地雷群や同担拒否夢勢やポリアモリー信奉者やアセクアロマ妄想者が「~」を検索することが阻害される・躊躇するようになる

このABはBLGLHLあるいはその夢妄想いずれでも成立する。作品名はファンの誰かの占有物じゃない。他ならぬファンの手によって他のファンの消費が阻害されてはならない。

みんなが他者のあらゆる表現に寛容になれ、よりもみんなが一定の距離を置こうの方が、まだしも達成可能じゃないか?日本の精神風土により合わせるなら、「みんなで分を弁えよう」でもいいけどさ。(その構図自体はあんまり好きじゃない)

"あらゆる表現”は、ファンと公式よりもはるかに幅の広い不明確な境界線。ある行為を親愛と捉える人間もある教義によって冒涜的な行為として捉える人間もいる。それを個々人が把握し自他の境界を引くよりも、避け方が一応確立されてる棲み分けを選びたい。

 

勿論二次だろうが一次だろうが未成年がいる場所で18禁や危険な表現を公開する問題は言うまでも無く。あと「乳首と股間隠してるから開脚でも発情顔でも謎の粘液まみれでも18Rじゃない」っつってエロ画像を公開してたり未成年エロ創作の発表と同じアカウントで実在の未成年に接触する連中は論外で**。

 

 

そして我々が嗜む「腐」「やおい」と呼ばれる解釈および消費方法には恋愛と性愛妄想―恋愛の成就の定型オチとしての性行為―だけではなく、性消費の要素があることも思い出して欲しい。「生」と呼ばれる他者や、他者(ファン)が大切にしているキャラクターの、きわめて私秘性の高い部分・人格の構成要件の根幹的な親密の情あるいは性的*な部分を妄想し開陳していること。

それは人格への理解と解釈という点で他者と競合する。まして生の場合にはあるファンが対象を愛玩物―好き勝手に消費していいモノ―にしている様を公表することは、別の、その対象を一個人格として尊重している人間からすればないがしろにする行為に他ならない。勿論対象をモノ扱いするファン同士ではその愛玩物(扱い妄想)は共有可能だが、その様は誰でも見れる状態にあるわけですよ。他人を思うがままに性消費することを、当然のファン行為だと実践して欲しくない。

 

*セックス自体が人格に占める割合が大きいとは限らないが、誰でも好き勝手にそこに踏み込んでいいという共有幻想はつくるべきではない

 

いや後述するけど他人にそれを強要はできないんだけどね。けど人格と才能ある一個人を自分の妄想アバター扱いすることを、私の好きな誰かにやって欲しくないですよ。

男性社会やゴシップ誌でずっと行われ批判されてきた女性有名人へのobjectificationを、いまさら男性に対しても行うのがステキなことなんて理屈、どうやったら通るんだ。

女性が被るダメージと男性のそれは非対称という事実があっても、その卑劣さは覆らないと考える。

 

 

 

 

それと同時に、背反するようなことだけど、同人の古い慣習も見直そうよ。守らない他人を従わせようとすることまでは無用だろう。利益出すなとか媒体がどうとか、他人が叱責することじゃない。そんなん"自己責任"だろう。