具にたどりつかないパイ

漫画読んでちょっと思ったこと。

Twitterで書き捨てれば十分な話なんですけどねーなんとなくこっちで。おもっくそ自分語りでーす。

すごい感銘を受けたとかめちゃめちゃ好きになったとかいうわけではないんですけど。去年無料キャンペーンで落として今日読んだくらいだし。(ちょうど一年だわ)

 

終わりのない悲劇を描くのがうまいなーとかレシピすごーいとか、その辺の感想をふつうに抱きまして。そうやって自分の心の動きが―むしろ動かなかったことに驚いた場面があって、ちょっと引っかかってる。

 

そのシーンというのが、シロさんが強姦魔に間違えられてそのフォローのために「自分はゲイ」「この人ゲイなの!」とカミングアウト→アウティングされまくるところ。

ギャグに紛らわせて描いてあるけど、ある個人が人から属性に暴力的に落としこまれるシーンで、その"問題ではなかった"反応―そうやって人として見られることを諦めなければ生きてこれない―も含めて、ひどくharmfulな行動・シーンなんだけども。そしてそれを問題であるとあえて描かない。―もちろん読者はそれを酷いことだとわかったうえで笑いに昇華できるよね?という読者への信頼なのかもしれないし、2巻以降においてその登場人物たちがその落とし前をつけるのかもしれない。話としては非常にきれいにまとまっていて、面白い。ゆえに読者の私が作者やその展開に対して怒るとか理不尽を訴える筋合いはないんですよ。当たり前だけど。

 

でも読み終わった後、全然違和感や怒りを覚えなかった自分に愕然となって。

自分の中では並び立つ事例なんだけども、シュヴェンケの『フライトプラン』で無辜のアラブ人が誘拐犯扱いされたにもかかわらず映画作中では全くそのフォローがなかったとき、私はめちゃめちゃこだわったんですよ(前blog参照)。

他方、この漫画のこのシーンについては、そういうのがほとんどなかった。

 

それは作家の読者コントロールが巧みなせいなのか私が鈍くなったのか共感の範疇が違うのか、わからないけども、自分ではちょっと驚いてしまった。

 

 

ちなみに私は人間の共存に一定程度以上の共感が必要だとはまっっっったく思ってません。理解も、共感よりはよほど重要だけども、さほど。必要なのは制度。個人が持つに、無知の知と共存の同意―諦念と言い換えてもいいーにしくものはないと思ってます。

閑話休題。

 

 

共感レセプターが私にないのは確かに当たってるだろうとは思いますな。私はどうあってもゲイ―male-homosexualではないし、ゲイは多くの場合生得的女性の利益代弁者でもなくむしろミソジニーという現象を間にした利益相反関係にあることがまま―あるというより私がしばしば目にしてしまうだけですかね。「安心して生きる権利」「既存の構造に乗ったまま生きる権利」が衝突しているのが現実。パイは決して大きくない。事態が単純化する分、少なくとも2007年の西洋社会における非西洋人*のほうが身を置き換えやすい。

漫画という媒体による対象化と男性として生きるキャラクターのどちらにより大きな原因を求めるかは措いておきたいです。

*もちろんあの時代のUSにおけるアラブ人は"非西洋人"以上の意味を持っていた

 

それはそれとして漫画はとても面白かったです。多分皆が知ってることなんだろうけど。善意の加害やそれに慣れてしまう理不尽を、どうやっても片方はハッピーになりえない二者関係を、淡々とユーモラスに描けるのはこのひとらしいなー(*ハッタリです。よしながふみについてそんなに知らない)と思いました。