地獄への40年

****吾桑は(これ書いた当時)超絶ダウンしてて『Alien(1作目劇場公開版)』原理主義者で期待しすぎなきらいのある人間です****

 

ネタバレ配慮なし。

 

【2017年10月に書いて放置してた感想文に書き足したやつだよ!!】

 

1. Alien:covenant

2. Alien-Series

3. その他映画 Shape of Water-Black Panther


****吾桑は(これ書いた当時)超絶ダウンしてて『Alien(1作目劇場公開版)』原理主義者で期待しすぎなきらいのある人間です****

 

ネタバレはしてないつもりだけど、個々のシーンに言及あり。

 

【2017年10月に書いて放置してた感想文に書き足したやつだよ!!】

 

1. Alien:covenant

2. Alien-Series

3. その他映画

 

1. Alien:covenant

 

 

うーむ…

どう捉えていいかよくわからない。とりあえずもう何回か観にいこう、と。

『PROMETHEUS』は”猛烈に感動したんだけどなぜ感動したのかわからない”って書いてますが、今回はほんとノれなくて…自分の精神状態が心配になるくらい。

 

いや、綺麗だし面白いですよ。たくさん出てる宇宙SF映画として他にひけをとるとは思わないです……つまりやっぱり期待し過ぎなんじゃね?(自問)

 

映像は勿論綺麗で、植民船がセイルを広げるところとかほんとう感動した。

ただ、構図にしろ音楽にしろ結構うるさいんですよ今回。ちょっと引っかかるくらい。

 

うー違うかな、構図自体は文句なしに端正。光の存在感とか。ただ、背景というか装置が驚くほど情報多くて。宇宙船ひとつとっても、Prometheus号は洗練されたきわめて硬質・シンプルな室内装飾。対してCovenant号は機構剥き出しでかつそれに投影・映写式プロンプターが加わる。

これは勿論探査船と殖民船という違いが反映されているんだけど、ただ『Alien』のノストロモのような採掘工場としての雑然とした生活感とは全然違う。物語のあるリアルな背景なんだけど、そこから、『Alien』がそうであったように船内社会構造やメンバーの関係が引き出せる、というわけではなかった。

音も同じく。音というか音楽かな?『2001年宇宙の旅』にインスパイアされた『Alien』は無音(と欺くだけで音はあるんだけど)をうまく使って宇宙の断絶や孤独を演出してた。ひどい音質で流れてぶつ切りされたアイネクライネとか。Goldsmithの不協和音の使い方は神がかってると思うし。

今回音楽が多すぎた。心情表現する系統の使い方で。

音響?は面白かったんだ、宇宙空間でのヘルメットの中だけにこもる音とか、その違いとか。でも”ああ今音を流されてるな”って思うことが多くて…専門的なことはわからないんだけどさ……

あとさーそもそもさーワーグナーは派手でうるせーんだよ。印象的に使いたいのは勿論わかるけどさーあれは物語を重ねる曲じゃなく「俺が!俺が!!」っていってくるタイプの曲なんだよもー。(完璧に好みの問題です)

 

あとなんていうか…盛り過ぎじゃないですか?監督……?

明確に続編だとわかっている――言い換えれば既にネタバレしてる状態で、人死やそこから引き出される物語の帰結とその悲喜こもごもを描くにあたって駆け足になるのは、当たり前だしむしろ望ましいことなんだけど、でもなぁ…ショッキングな死に様なのに恐怖や嫌悪を感じる暇がないというか…でも妙に説明的なところもあったんだよなぁ…生首映しすぎだとおもったり(4回は多くない?)、シャワーシーンはxenoに狙われてるのが観客にはバレてることもあってルーティンになっちゃってたし…。

ドラマがありエンターテイメントがありしかもxenomorphという強烈で欠くことのできない造形があり……ってやってるうちに監督のcreateについてが遠のいてしまった感じ。

『Alien』-『Prometheus』をシリーズで考えたときに、createには①生殖②生命の起源③メタな視点でそれらと重なる映画の制作、局地的にはxenomorphという恐怖の創造。の3つがぱっと浮かぶ。創造主と被造物の対比を考えると、神と呼ばれるなにか(一面的にはEngineer)と人類、人類とアンドロイド、それからアンドロイドとbigchap。

 

あとなんかめっっっっちゃMichel Fassbender 推しになってたっていうか…なんだ、いや、三部作にするなら彼を軸にするしかないんだけども、えぇー…ってなりました。

いやいいんだけどさ、対立項で彼が目立つと相対的にxenoの占める量が減っちゃうのよ…

 

エンターテイメント部分について。

―下衆の勘繰りでR.Scottは『Aliens』がキライだと思ってるんだけども。Lance Henriksen出してくれないし~―『covenant』はちょこちょこ『Aliens』を思わせるシーンがあったのが、ちょっと混乱を招いている(私に)。

 

 

 

なんかね、ほんと不思議なんですよ。

逆パターンなら山ほどあるんだけど、この作品は脚本に瑕疵がないのに全体で見るとなんか不自然という。植民団として綿密な計画を立ててたはずなのに本来の予定を外れて精査もしてない近場の惑星にぱっと目的地変更しちゃうのはなぜか、とか、うまく自然な流れにしてる。逆に失敗シナリオ、筋道が破綻してる映画その他の物語は沢山あって(「何でそこでそんな選択するんだよ不自然だろ」「なぜそのルート使う!アホか?アホなのか?」ってよくツッコミ入るでしょ)、これはそうじゃない。…そうじゃないんだけどさ、やっぱりうまく飲み込めないんだよ。Michel Fassbenderの格闘シーンそんな長く要る?ウェイランドに対する責任だけじゃなくて人類という種への安全保障システム(要は三原則)は組み込んでないの??てゆーか兄弟ちゅーシーンとか要った??? ねぇ要った??なんか無駄に動揺したんですけど!!!!(それは己の問題)

 

あっあれだけは納得できない、あれは駄目だよ!CGの使い方!!

あんながっつりxenoとかその身体にまとわりつく血液とかやっちゃうと、10年後に”これ古っ!?”ってなるよそれこそ『Aliens』の飛行シーンのように。

そこはもうちょっとリアルさにこだわって欲しかったなぁ。

変態もね。時間短縮のために仕方ないんだけど、孵化の瞬間から綺麗にbigchapじゃないですか、あれはさーやっぱ例に倣って幼虫っぽいシルエットから始めてっいって欲しかったし、形態も人間離れ≒四足獣寄りすぎてた気がする。いや直立してたからヒトのDNA取り込んでるのは間違いないんだけど、”完璧”―ご都合主義という意味で―すぎるよね。

世界中のxenoフリークスはどう思ってんのかなぁ…。『Alien4』みたいな造形の披露は楽しめたんだが。それにMutter博物館みたいなプラスティネーションは面白かった。確かに。 

 

 

2. Alien-Series

 

ついでにTV東京の一挙放送について。思わず見てしまったわ。

 

『Alien』『Aliens』

地上波を見たのなんてもう何十年前?って感じでその後何度もノーカットのDVD見てきたからなんだけど、すごい驚くほどばっさりカット短縮してるなー。

あとね、私が贔屓なのは自覚してるけど、やっぱAのほうがAsよりも見事な、風化してない映画だと思うんだよなぁ。兵のヒロイズムや熱狂の魅力・派手さは認めるし、特殊効果への挑戦とその評価の高さも知ってるんだけど。でもやっぱり技術的には陳腐化してしまう技術を利用しているし、見ると古さを感じる。勿論R.Scottだって散々真似されてるしあの時代でしかありえない冗長さ(私はそれを退屈とは欠片も思わんが)を生んでるんだけど。でもシチュエーションを世界観にまで高めて「この表現以外にありえない」と思わせられる点に関してはAsを凌駕していると思う。キャメロンの描く「未来」は一過性のものだ。

あと思想という点でもやっぱりより革新的なんだよ。

フェミニズムの視点でもう散々記述されてるけど、As-A3は母親・女性の物語だけど、Alienは女性と男性を超えた生殖の恐怖を描ききった(ここprometheusでもっかい女性に戻ってしまった気もするけど)。目的のある有機体と生れ落ちてただあがき生きていく人間の対比もAsよりも鮮烈に描いていた(Asはむしろずるい人間vsに濃縮してしまって)。

とはいえ猛烈に面白いんですよね、Asは派手で。

 

『Alien3』『Alien: Resurrection』

低評価を貰いがちなこの2作だけど、わりと面白いと思うんだよ。『3』は今見ると古いのを措いても―特に音楽に古さを感じた―陰影の使い方とか映像に関しては、私かなり好きですね。あの溶鉱炉と顔アップのシーンを重ねるのとかCGとか本当古いんだけど、なかなかに劇的で。(それでも[鉄]はねーけどな!!!) デルトロほどではないけど、色調による心象表現をかなり意欲的にやってたんでは?

…ただ地味なのは認めるよ。異論はない。好きだけどな!

4作並べたときに見劣りするのは、もうなんかしょうがなくない?と思わずフィンチャーに同情してしまう。…xeno要素抜いたら観るか?と訊かれたらかなり迷うけど確かに。

やっぱ地味なのが問題だと思う。ドラマに重きを置いてたのは知ってるけど、武器がないのはかなり辛いね。火は使ってるのに。

(ここで改めて"宇宙船"という環境を用いて攻撃手段バリエーションを展開したR.Scottに敬意)

 

『4』はもうアレです。自分で言うけど贔屓(xenomorphとSigourney)の引き倒しで誉めます!!!!

いやだってしょうがないべ、宇宙船に目新しいとこないし(建築としては面白いけど革新的ではない)軍だけど戦争アクション的な押し出しは弱いしコメディ風味だしサヴァイヴァーが脳筋だし、明らかにSigourney礼賛とXenomorphショーやってるじゃん!!!

あぁ、今気づいたけどXenoに対する姿勢はかなり看板商品的陳列めいた―かつてのシュワルツネッガーとかスタローンとかみたいな―あけっぴろげにみせるやり方に変化してて、これは後のAVPに近い。その分通底していたテーマが―勿論、特に映画において―薄まってる。生殖の問題から異なる有機体(個人×Xenomorph×企業)の相克の問題に天秤が傾いていた。

<これは後にR.ScottがPrometheus-covenantで振り戻す>

ともかく、『4』はxenomorphの遊泳シーンだけでいいのです。水流とシルエット考えたら絶対スピード出ないだろあの泳ぎ方とか、思ってるけど優雅だからいいの好きなの!

ツッコミどころは多い映画ですよ。リプリーの発言とか子宮に何のメリットあんねん(35億人のさけび)とか子宮とnewbornの体積比とか。損壊したらオートで地球に戻るとか。―――なんで?機能不全起こしてるなら大気圏突入せずに救命待った方が生存率上がるんじゃね。

 

3. その他映画

同じ日に見たやつ。

もともと一気に映画二本以上見るの苦手なんだけど、これは正直食い合わせが悪かった。

 

 

**映画としての各評・表現論、映画史における意義、そういうものは措いておく、…というか他で十分に語られているのでここではしません。あえて総評を書くと、どちらも素晴らしい映画で大好きです。でも二つつき合わせたときのこの苦い味わいを記録しておきたいのでわざわざ書いてます。**

 

あえて乱暴な括り方をする。

『Shape of water』ははじめから奪われた者の、『Black Panther』は持っていた者の取り戻しの物語なんですよ。だから対比したときに辛い。奪われて生まれた我々は、今生では決して欠けた己を取り戻せないのかと。欠けた我々は欠けたままに、うつくしい物語の中にうたわれて消費されるだけなのかと。

"はじめから奪われていた"というのは言葉として本来成立しない。持った/所有した/占有した、それらがある時点までにあって初めて奪うことが可能なのだから。はじめからないものは、誰かがそれを獲得したとしても最初の誰かから"奪った"のではなく単に獲得した、とするべき。本来は。

けれども、これが社会的な"力"(あるいは表現とか)についてとなると、奪われたと表現するしかないのだ。力は作用される側があって初めて成立する。持たざるとされた誰かは、実ははたらきかけができるのに、作用される側がそれを拒絶し、その働きかけをなからしめる。そして持つものは持つことをして優位に立つ。これを奪う、という。

 

『shape…』のイライザは女で、中年で、掃除人で、口が利けない(あと設定上不美人。実際はチャーミングで伸びやかな肢体が美しいんだけど)。1960年代のUSでは当然弱者であり、デルトロが暗に示している今この世界においても抑圧される側の記号ないし旗印といえる(というか現実にそれらの属性を持つ人々が解放されているわけではない)。徹頭徹尾奪われた側で、それが最後まで続く。

 

『Black…』はアフリカ系のrepresentaitionの物語。描かれているのは無数のアフリカ系の、奪われた誇りを在らしめて奪還する王。彼は確かに選択するし、未来に向けての行動を起こす。それは希望を持って描かれる。

奪われたものは最初から登場する主人公ではない。

 

あれだって資源頼りの第三世界途上国類型だとか結局血統主義じゃねーかとか腕っ節が最後の権威かよとか、いくらでもツッコミはありますよ。でも今現在奪還の途中にある人間に、そしてそれが望めずにいる人間に、ルーツというかたちでありえた豊穣を示すことがどれほど意義あることか。単純な"カッコイイ"を鑑賞者の側に植えつけようとする映画。"つくられた伝統"に限りなく近い虚構が何の役に立つか、むしろ有害ではないのか、という問いもあろうけれども、それって既存の無数のヒーロー映画だったんじゃないかと、投げ返せばいいと思う。

 

そしてちゃんとしてものをつくってるな、と思ったのは、血筋を誇りにはしても、単純な倫理規範≒現在にそのまま適用すべきとはしていないところ。

 

 

ここがきれいに、『Shape』の御伽噺構造と対照的になっている。

 

デルトロの言う裏返しの「美女と野獣」、大人の御伽噺の世界において、確かに彼女はロマンスを獲得し自由な未来を手に入れた。悪役は倒れて、確かに大団円。セオリー通りで、セオリーのままに閉じていく。

しかもデルトロらしい幾重にもわたる語りの重層化[映画>ジャイルズの語り>画面上の出来事>イライザの夢想世界]で、結末にいくつもの解釈が可能になっている。『Pan's Labyrinth』でも使っているあのしかけ。我々は御伽噺の鑑賞者として美しい結末を手に入れてる。私たちは―感情移入はするものの―徹底して鑑賞者の位置にいる。

じゃあ『Pan's』で可能だった、少女の死を悼むことが、今作で私にできないのは何故か。

…何故だろう。子供は他者だけどイライザは他者じゃないのだろうか。

 

 

結局。

イライザは"奇跡""神の力"無しには結局自分の夢想以上のものを手に入れてはいないし、その奇跡を得るために過去を失ってる。友人と陸上の芸術。言い換えれば、最後まで人間世界においてのイライザは奪われたままだった。彼女は彼女のまま素晴らしいとはみとめられず、欠けたる己のまま幸せにはなれなかった。

あと、すごく大きな不満が、半魚人に凸型性器があって人間と同じセックスに興じるってとこ。いやあのかたちなんだから不思議じゃないよ、卵生である必要はないよ、ていうかそれが交歓ではあっても人類の言う狭義のセックス―"love幻想と結びついた生殖行為”とは限りませんよ確かに。でもさぁ…ラブロマンスにチンコが必須(少なくともそれがお約束である)と明示されるのは気に入らないね。どうしてもそれはヘテロのロマンティックラブイデオロギーそのままに思えてならない。

 

御伽噺、特にラブロマンスなんだから愛こそ至上であり、ピリオドの打てる大人の物語、正しさが約束されたそれがデルトロのやりたかったことなのはわかる。そして正しさのためにはイライザが奪う側に回ってはならないという原理はわかる。

持たざるものが奪還を実現する、且つその過程で他者を虐げずにいるためには、自身をではなく世界を逆転させねばならない。それは論理としても倫理においても正しい。でもさ、それ結局もとの世界において弱者が弱者のまま終了することじゃないか。確かに強者は転落したけども、構図自体には何の関与もしていない。

重ねて書くけどあれは正しい結末。しかも古典ロマンスのように、イライザに自己の決断と行動がなかったわけじゃない。でも、最後には抑圧する枠を突破して欲しかった。崇められた半魚人を売り飛ばして高飛びするくらいの、反逆が欲しかったとは考える、いまだに…。

 

『Black』は祖先の訓示に一部ではあるけども反逆してるんだよ。観客としてはそれが必ずしも正しいとは考えられないにしても。

ただ、選択は観客に開かれてるし、それに希望もある。希望が我々が関与できる側に、投げられてる。 

終始現在の選択に焦点を当てていて尚且つその結果に希望があるのがいい。いや、いいかどうかはわからない、でもやがて来る崩壊の予感に俯くことを許さない、底抜けの強さ(これがMARVELか!)が非常に魅力的に思えてしまった。『Shape』の後では。

『Elysium』のように破綻を予感させるわけでも、『Terminal』のように現状に適応するひとりに世界が収斂するわけでもない。

 

その対称を見ると、やっぱり『Shape』は苦しいんですよ。並べてみなきゃもっとマシに思えるはずなんですけど。(面白い映画なんですってば!)

 

デルトロの襟首掴んで揺さぶりたくなる(笑)。なんで!?って。何でイライザを物語に閉じ込めて、奪われたものを奪われたままに美しいだなんて、そんな悲劇を称揚した?、と。私たちは拳を突き上げるし突き上げた拳を振り下ろさないではいられないんだ、と。

(デルトロはメヒコだしnerdだしで、決して奪う側ではないです。私もイライザの側じゃない。わかってます。)

 

 

…しつこいけど面白い映画ですよ!デルトロらしい色調の変化も陰影も楽しめるし皮肉もおかしみもある。ただ、食い合わせは最悪だったって話です。