aso_the_maniac、嫌いなものは全体主義と信仰!!!
という話。
吾桑はGAと皆川博子以外の何かを絶対視することはない…とおもいます。
One絵の相対的たち位置(めっちゃ偏見)
エクストリーム意訳:「絵が下手」という言葉を罵倒にしか捉えられない人間は理解が浅いだけ。
:Oneは非常に優れた漫画製作スキーム制作者
ノーミソ永遠の三才児なのでOneの絵は下手だと思ってる。
確かに漫画として読みやすいし演出も巧い。しかもあの絵は凡庸な誰もが通った雑さや歪み(どこに注力して描いたらいいのかわからない・対象のかたちを掴みきれてない・質感やデザインに応用がない)だから、観る側に共通理解がある。読者は描こうとしている対象が何なのかを即座に"わかる"し、こういう表現になると得心もいく。(この点Frazettaの陰影やFerriのマニエリスム的身体表現のほうが、未経験の地平という意味で多くの未熟練鑑賞者や絵描きには理解しがたいのではないか)
Oneは読者に未熟な絵に親しみを持たせ、描ききれない部分を勝手に補完させることで実際上以上の表現力を勝ち得ている。そういう意味で非常に成功した描き手・表現者だ。
でも絵は巧い訳じゃない。
絵が巧いというのは対象を描けることであって描かないものを適切に選べることではない。 -適切に選べるってのは巧い側に寄りすぎか、表現の結果を鑑賞者の感受と文化文脈に委ねる、かな。
それを巧いと一括りにしては正確な評価にならない。贔屓の引き倒しは正当な称賛ではない。
結局、絵画ってのは文化の粋なわけだ。
その文化の中で形成された規範が先鋭化してでてくるもの。Oneの戦場は日本の2010年代の”少年”漫画という文化で、その享受層は
・多数の
・絵の表現手法についてさほど真剣に考えていない(但し幅がある)
・緩い共通認識をもつ人間の集合(漫画および物語を初めて読む人間は恐らくいない。最低限の手法・起承転結の”お約束”に対する理解はもってる)
で、その中身は
・競合が多数いて”巧さ”のような比較可能なパラメータで勝負すると天井知らず
・うまく立ち回ると何しても迎合する信者を獲得できる(必ずしも直接的な利益に繋がりはしないが一定の好評価を拡散してくれる→一定の評価があるととりあえず買ってみる浮動層が常にいる)
だと思われる。
対置されるのが西洋絵画のサロンか。鑑賞者と制作者が相互触発的にその文化に対する理解を深め、同時に規範も合一していく場所。教会ほど表現対象とその評価が厳格、且つ不特定多数(教義を一にしてはいても素養はない)を相手にするものではなく、現代アート(という括りは難しいのだが)ほど評価や規範に対して挑戦的でもなく鑑賞者を選別しようとしているものでもない。
ここに狙いを定めると、絵は
・わかりやすい
・小難しい凝った表現はNG
・むしろ親近感を抱かせる技術力
・技巧者揃いのなかで目を引く個性(てきとー感)
・しかし本歌取りの要領で、その場面において何をしているか・何を感じるべきか、は読者が先読みしてくれる。(逆に場面選択においてはかなりわかりやすいお約束とその逸脱*1を選択せねばならない)
かくあらねばならない。Oneは狙ってか狙わずしてか、見事にこの条件をクリアしている。すごい。
(この辺、芸術のなかでも例えば音楽なんかはかなり身体の快楽に近いので、音楽界のOneなんてものがいたら全然違う問題になるし、読み解き方も変わってくるはず。音楽界のOneというのがどういうものなのかまだ措いておくけど)
狙ってか、と描きはしたけどOneは別に「上手い絵」を描こうとはしてないだろ。「上手い絵」という評価を欲してないかどうかはわからないけれども。
だから、漫画文化においてOneは下手なわけではなく、表現は巧い。ただしそれは”絵”の文脈においてではなく、漫画文化とその享受層のなかで理解を得られるかどうかという話。
だから漫画人間(ってなんだよ)でない私は「Oneは絵が下手」と明確に言います。
*1 逸脱とはいっても、それもお約束のうちなのだ。Oneの物語展開に対する姿勢は「冷笑系」で終始一貫していて、これはネット社会以降の相互発信メディアにおいては大勢を占める見慣れた在り方。
読者の多くも既に見知った少年漫画への「冷静なツッコミ」を忠実に再現している。
ここで蛇足。
「Oneは絵が下手なんじゃない!」と述べる層はどういうことを言っているのか、考える。
勿論、「絵が下手」を単なる低評価あるいは罵倒と捉え、自分の好み評価している対象にそれを適応することへの拒絶、という部分が大きいのだが。それは措いておいて。
…いや、やっぱり先に述べた絵としての表現と漫画表現の能力の混同としか考えられんな。
その混同は仕方のないこととはいえ―だって人間は漫画にそれほど気を傾けていられない。思考停止して言いたいことを叫んでたほうが合理的。特にオタクは内容を精査するよりも「○○が好き」と絶叫することでそのアイデンティティを確立しようとするイキモノだから―、それによって零れ落ちているものの多さを私は惜しむよ。
この辺は「エロい」という言葉についても触れたけど。いい加減すぎる言葉の選択によって、その先に広がる豊饒を逃していることが、あまりに多くて辛いんだ。
まーこれは私が主張するよりも此方↓の端的な文章で腹に落としていただくほうが早いですな。
(全面的に賛同しているのではなく、私としてはこの文章は視覚的な美に偏りすぎていると考えざるを得ないのだが。身体による快感に端的に繋がるダンスや音楽は、やはり生得的な感受性の占める割合がもっと大きいと思う。しかしやはり卓見であり秀逸な文章であろう)
中学の修学旅行の前に、和辻哲郎の『古寺巡礼』を読まされて、筆者が聖観音を拝観した際の感動をつづった美しい文章とか読んでめっちゃ心打たれたんだけど、いざ奈良に着いて聖観音の前に立ってみると(あれ…そんなでもない)という感想で、自分の感性の乏しさに焦りを覚えたのだが
— シュナムル (@chounamoul) 2017年8月24日
あれから色んな美術品や建築を見てきて、美への感興ってのは、言語を介して享受されるもので、感受性とは表現力のことだと、だんだん分かった。感じる心が先にあってそれを表現する言葉が後に来るのではなく、人は自分の持っている言葉の豊かさのぶんだけ感じることができるのだと。
— シュナムル (@chounamoul) 2017年8月24日
人は美を表現する言葉を持つほどに美を感じることができるし、愛を表現する言葉を持つほどに誰かを深く愛することができる。この世界から与えられる喜びを捉える言葉を持つほどに、文学ってものが人間の世界をどれだけ広げ豊かにしてきたかを実感するんです。
— シュナムル (@chounamoul) 2017年8月24日
ついでに主張しておく。
例えば「One作品はキャラカタログとして非常に優秀」と述べることは吾桑がそのキャラたちを非常に好んでいるということを意味しないし、キャラカタログ自体に対する価値観も述べていない。
が、ここを勝手に混同する人間が多くてたまにげんなりする。百歩譲って好きなものは我慢しても嫌いなものを好きだと思われるのが死ぬほど嫌いな人間です(主張)。
まぁ「キャラカタログ」や「美少女動物園(だっけ?)」という言葉が「中身のない、物語としての面白さの追求をやめた漫画やその他創作物」として主に嘲笑の意味で使われたらしい、という経緯はうっすら聞いているので、気をつけねばならないのは言葉を用いる私の側であるが。
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