偏執狂の異常な狭量 または私は如何にして心配するのを止めて対象をブロックするようになったか

Twitterでのブロック判断の理由について。

脊髄反射で生きてます。

 

あと、勿論ブロックの理由は下に書いたものの他にもあります。

明らかに違法な無断転載やスパムアカウントや鍵アカの場合もブロック対象なのですが、その辺は明確な規範と規約で既に線引きできているので言うまでもないこととして。鍵アカもわざわざ書かなくていいでしょと思ってます。

 

1/18追加 明らかに動いてないアカウント(シャッター商店街みたいで悲しい)

ていうかそもそもあんまりブロックしたくないんですよね。

 

 

 

 

 

吾桑のブロックの基準について一応明文化しておきます。ここで書いてもTwitter来る人には読めないんですけど。

基準と呼ぶのもおこがましい、Twitter上の判断についての線引きです。

 

前提として、これは、現在の私のTwitter用途においてのみ適用される基準です。

私はTwitterの閲覧数やフォロワー数を稼がなければならないわけではありませんし、私の呟きが見られないことが損害になるほど優れた創作者でもありません。もし私が宣伝効果を狙ってTwitterを利用していれば、あるいは、全人類が見ておくべき何かが私の呟きのなかに含まれていれば、 私は私の嫌悪感を押し殺してフォロワーを増やします。けれどもそんなことはありません。

 

 

 

ハイカルチャーローカルチャー問わず、あるいはプロの手による作品か否かによらず、他者の作品を望ましくない状態で無断利用するアカウントは関わりを持つことを拒否します。作り手側がそういう使われ方を想定している場合は除きますが。

このご時勢、無断使用は仕方ないことですし、キュレーションという自己表現もあるでしょう。だがわたしゃすかんもん

具体的な例をいうと、他人の創作物のキャラクター、その更にプライヴェートな部分である性事情を面白おかしく語るアカウントを、死んで20年も経ってない画家の作品で飾るのは到底賛同できないのです。だからブロックしました。

 

賛同できない、というのは常識や法律といった外部的な基準ではなく、私の感覚に照らしてのことです。

これは本当に感覚の問題。私の創作者への敬意の払い方は、その作品に対して正当な対価を払うことや「それの濫用を以て価値を損なう」ことをしないこと。逆の人もいるでしょう。「使ってあげる・広めることでその作品の価値を高める」と。広く知られていることが高い価値を持つのか、それとも美の規範をしっかりと把握したリテラシーある人間に鑑賞されることがそれなのか、という価値基準の問題にもかかわりますが、私はそこには踏み込みません。変動しやすい内面よりも、「実際何をやったか」という行為を見て私は判断を行っているのです。

日本画を、解像度の低い状態でTwitterのヘッダーに利用することを、私は消費としか呼びえません。それは鑑賞とは遠い行為ですし、敬意を"感じ"られないのです。私が絵を好きだからこそ、それは許容し得ない行為なのです。

「いや敬意を持ってるよ、好きだからそれをしたんだ」そういう回答もあるかもしれません。

けれど、その人のいう「敬意」とは何なのか、どういうかたちで表されるものなのか、好きか否か、繰り返しますが、そういった内面の事情は私にとって意味をなさないのです。

行為に対しての判断を行っています。

 

そしてその行為の結果、私のTwitterが見られないことぐらい、その人たちにとって何の意味もないでしょう。

 

この判断は外部基準ではありません。

著作権法で定義された「使用」にあたらないから可?それも一つの考え方でしょう。しかし、だから私もそれに倣え、ということばには私は従えないのです。作り手に敬意を払わない人とは同じところに立ちたくない、というのが私の肌感覚です。"敬意を感じられない"人と同じものを見、一つの対象について語って絵を共有したくない。自分の絵も消費されたくない。それだけのことです。

 

彼らのそのやり方は、何かの基準に照らしての悪でもなければマイナスでもありません。

だからそれは、変えなければ”ならない”ものでもないのです。

私自身、それを行った人たちを変えようとも害そうとも思いません。ただ私が愛するものたち(=私がTwitter等々で満たそうとしているものたち)を同じ場で、その人たちのやり方で消費されたくないだけです。

対話しようと一切思わないのもそのためです。他者の行為を将来にわたって変えるためには、対話を経て考え方を変えねばなりませんが、その必要は無いのです。ただ同じ場所を共有せずにすむのならそれでいいので。

 

除外条件もあります。

例えば、「BLEACHが好きでそのことをアカウントのアイデンティティにしている未成年が公式画像をヘッダーにしている場合」はブロックしないように堪えています。

これは、原作が少年向けに広く利用されることを一つの到達としており、アカウントの目的とそれが合致しているからです。

BLEACH(というかジャンプ作品)は恐らく「誰にでも親しまれ愛され消費される作品」たることを目指しています。TVアニメのような無料で広く人口に膾炙し有料のコンテンツに人を呼び込む、というスキームを確立された商品です。そこにおいては、似ていないけれどそれと判別可能なキャラクターや公式画像の無断使用も、広告効果が損害を上回れば是認されなければならなりません。そして好きなものを明示して個人の紐帯を築こうとする、という行為は宣伝効果がある、とみとめられてると判断するに十分でしょう。

また、未成年は許容せねばならないという絶対規範には従わなければ……駄目かなぁ…駄目だろうなぁ、嫌だけど…。いやまぁどうやったって将来の規範をつくるのはその未成年らなんで、私が拒絶するしないじゃなく、そうなるという必然に流されてるところです。

対して、先の例で挙げた日本画の場合、広く鑑賞されることが至上命題といっても、質感やディテールを損なわれた状態で展示されることがよしとはされないでしょう(というか私が嫌)。またまったく違う作品のキャラクターついて語る、そのサブアクセサリーとして利用される、そんな展示方法が肌に合わないのです。日本画や創作物諸般について語るアカウントであれば、「パブリックドメイン使いなよ・・・」とは思っても拒否はしません。けれどそうではなく無頓着に張られた画像は、その作品を単なる壁紙に貶めることであり悲しすぎるのです。

 

私は、最低限できること・他者を害せずになせることで、自分をより心地好い空間に置きたい。そのわがままがブロックの理由です。

 

 

*繰り返しますが、これはTwitterの話です。私のアカウントによるブロックが 、例えば物理的な土地において私の領地の閉鎖によって通行が不便になるとか、そういった何らかの損害をもたらすならば私の判断基準は改めねばならないものでしょう。けれど、Twitterで私ごときにブロックされたところで何か損害が生まれますか?何もありません。

**人間を峻別するにあたって、本来は↑この論法は決して使ってはならないものなんですけどね。本当は。「ここまでなら」「ここだけは」という留保は、容易にその基準を上げていき他者を害するようになるものだから。但し社会には権力勾配があり人間には強者と弱者があり、ゆえに後者が前者を拒むことは自衛としてあってしかるべき。また対等な二者間においては互いを拒むことに何の問題もないでしょう。むしろ衝突を避けるための知恵としてあらまほしいものです。

だから本当は、完全に穏当に共存するためには(←これ必要か?)、上記の理由であなたの立ち入りをご遠慮願う、あなたも譲歩して欲しい、という対話とその上での落としどころ探りが必須なんですけど。でもSNSでそれやったら確実に相手のほうが消えるでしょ。誰も何も変わらなくて、徒労に終わる、と。そういうことも含めて、無言ブロック、そしてここで一応明文化しておこうという結論です。