El Hombre Que Soy

最終回を機に、せっかくだから色々考えてみてるんですが。

 

分からん。

端的に言ってまったくあらゆる方向に全然理解できない。という感想と疑問を書きなぐったアレコレです。

 

 

勿論完結して頂けるだけありがたいんですけど、はい、もうそれはもう、えぇ切実に…

 

 

 

 

 

 

 

*16/8/29加筆修正

 

でも一ルキ結婚エンドじゃなくてよかった(早速思考放棄して感情に走ったよ)。いやあの二人は同志というか、互いに対する恋愛感情とかそういうの挟んでほしくなかったから。

じゃあこれで満足かって、そんなこた1ミクロンたりともなくて、しかし不満とか気に食わないの前にまず、ついていけてないです。一織・恋ルキな人たちはこれで納得するの?この感じで例えば東仙が唐突に生返ってたり、なぜか修砕(いや夜一様だろうが大前田だろうが白哉だろうが誰でもいいんだけど)が結婚してたり、ありえないけど一雨が揃いの指輪嵌めてたり、ネムちゃんがなぜか空座総合病院でミニスカナースやってたりしても一緒ですよ自分は(;゚д゚)ポカーンですよ。それくらい筋道行方不明ですよ。

これでいいの?唐突過ぎない?っていうか結婚???子持ち??????はっぴー??

 

いや一護と織姫っていうのはいいんですよ、最初っからそういう描写あったし(そこが問題だって人々がいるのは承知のうえで)。喪われた母親の面影を織姫に重ねて取り戻すことで、幸せが叶うっていうのもありかなと思います。問題は相手が誰かじゃないと思うんです。

 

ライフステージが変わるためには絶対に何らかの文脈(物語上の事件)が必要なわけじゃないですか。その人格を構成する要素が変化するわけだから。そこかっとばしてハッピーエンドのテンプレ持ってこられても困るわけですよ。エンドから逆算して整合性を求めることはいくらでも出来るけど。

 

主人公ってもともと「成長(パワーアップ・それまで届かなかった地点への到達)」はしても「変化」「変節」はしないものじゃないでしょうか*1。現実の人間とは違って。

「誰かを護りたい」って繰り返すことが読者に対しての主人公のアイデンティティだったし、それをそのまま物語のテーマとして受け取るのが読者だったわけだけども。護るっていいながら、護るものに優先順位をつけられない、読者の葛藤を丸抱えするのがこの主人公じゃなかったっけ。。。

なのに愛するものを明確にし、それを披瀝するだけの状態で再登場されても、「何でそうなった!!!???」って言葉しか出てこないんですよ正直。

逆算するにしても、全部矢印が一護に向かっているものしかない。一護からどこかへ向かう矢印がなさ過ぎました。(正直これも意味分かりたくねぇっていうかお前それ保安組織としてマトモじゃねぇだろって言いたくなるけど)侵攻のときにSS側が一護に助けを求める、織姫から一護へは言わずもがな、石田が「友達」言っても(あのいしだくんが!!!だよ!!!!)*2、それが一護の原動力になるとか影響した形跡-描写はあっても一護の意思決定それ自体は描かれない。いや先に言った「護るものに優先順位をつけない」のはもう確定事項なんですが、しかしそれなのに今回決定の結果だけ提示されたんですよね。

 

そもそも、闘う漫画の主人公って現状維持を志向するものです、革新というより。ヒーローってそういうものだと。助けを求める側からすれば、「害」されそうになってるときに、「あ、キミアイツにさらわれた方が幸せになれるよ」とか諭してくるやつはヒーローじゃないわけで。

それは戦いが自ら望んで起こすものであってはならない、「敵の先制攻撃」というエクスキューズがあって初めて戦いが正当化される(戦争行為への批判的な視点と予防的先制攻撃の否定)という現代の常識というか共通認識に立ったものなんですけど(とはいえ吾桑はあんま少年漫画知らないから例外はままあると思うんですが。つか今ぱっと思いついた田村由美『BASARA』は武力革命を否定する革命の話だし、現状肯定を明確に描いたCLAMP『X』は戦争じゃなく極限状態のロミジュリ展開を必要としてるだけだし、『Zone-00』は巨大勢力同士の昼ドラ展開に巻き込まれた人間代表の話だしなぁ)。とにかく現状を破壊するものは必ず外部要素であり、現状は厭わしい部分はあっても護るべき立脚点として描かれるのが普通で、それは読者及び読者が感情移入する主人公の自己肯定につながるものであるはずなんですけど。多分2000年代初頭くらいまでは*3

 

で、最終回。現状肯定からジャンプしちゃいましたよ、と。

確かにね、家族が大事ってのは繰り返されてましたよ。そのなかで家族を喪った織姫と一護っていうのは符合するパーツだっていえます。そしてこの二人が『結婚』するなら『幸せ』のために『子供を持つ=家族を再構成する』っていうのは得心が行くんです確かに。

だけどblchという物語で『幸せ』の追求が問題になったことがありましたか?blchにおいて登場人物が真正面から『幸せ』を求めて能動的に動いたことが?私の理解の及ぶ限り、ありません。何故突然物語の先に見えるものを変えたのか?しかも子供自体は超ハイスペック、むしろこれまでの流れからいったら、浦原や未知の勢力が何か仕込みたがる/その力を利用しよとするに十分な、世界を揺るがすオーバースペックなわけじゃないですか。物語の上でいったら火種になりうるし、パワーバランスを崩します。

どっちにしたいんだよ。継続する(と考えられる)ストーリー展開に整合性もしくは必然性(有余る力を巡って紛争が起こるのは当然)を付与したいのか、単に主人公を幸せにしたいのか。(後者であれば、それが作者にとってどういう意味があることなのかすごく聞きたいものですが)

 

 

どうもね、師匠は円環というか螺旋状に物語が回帰するうつくしさを演出しようとして読者を置きざりにしちゃった感が否めないんです。15周年完結、death&strawberry回帰、ふたりの主人公の対称性etc... この漫画はもともと演出上の小物の象徴性とか隠された意味の符号とかを非常に大事にしていて、確かに師匠の才はそこに特化しているんだけども。

死神側は全部元鞘(勿論浮竹を喪った京楽、反逆者を礎にせざるをえない死神の世界、…ネムを亡くしたマユリ様はちょっと除外して色んな犠牲はあるにせよ)、現世側は立ち位置をそんなに変えず、けれどもかつてよりも「家族」というしっかりした拠り所ができたよ、という。その上で、一護 は現世にルキアは尸魂界にそれぞれ足場*4を築いた。けして交わらず、ただ共に歩むことは否定せず…

 

って書くとこれ以上ないくらいな円満パーフェクトエンドなんだけどそれblchらしいのですか?この物語の結末として望ましいとはいわないまでも有得るかたちだったのでしょうか?

 

 

 

真面目な話、少年漫画のステレオタイプを脱却しようと試み続けてきた師匠が、最後の最後でこれ以上ない、それはもう陳腐としか言い様のない「ハッピーエンド」を持ってきた理由が本当に分かりません。王道というのはマジョリティに適応したものだし、『ジャンプの人気漫画』は間違いなくその側に立つものだけど、blchってもっとスノッブ、といって悪ければ中二的な感性でつくられてきたものじゃないっけ???今後の商業展開上王道におもねらないといけない理由でも出来たんでしょうか?

どういう顧客層を想定したらそうなるのか…。いや既存顧客に迎合しろっていいたいんじゃないです。師匠のなかでの整合するものが見えないだけで、だから師匠の外に妥当性の根拠を求めてるんですけど、まったく分からん。

 

あとこれだけステレオタイプ言っておいてなんだけど、このご時世にヘテロの結婚と出産を大団円に持ってくるのはなあ…そこは「少年」ジャンプだなって思いました。子どもって元来保守的なものだし、「子供に対して責任を負う」と自任してる大人はさらに保守的なものだから…あぁそうかそういう意味では、セックスとジェンダーロールを明示される、ルキアの腹ボテ姿の方がエグかったかもしれないですな。過程すっ飛ばして大きい子どもがいる方がマシ。そう、キャラクターとしての一貫性を問うならば、問題は一護よりもむしろルキアなんですよね。

ルキアのキャラクターぶち壊しだと思うわけです。あのこの魅力は女性になる前の、幼い子供がそのまま老いて職務を担うようになった健気さとか潔癖さなわけで。信条を守って自分が傷つくの(も鉄拳制裁程度になら相手を傷つけるのも)を厭わずに力を振るう、そういう。守られるよりも守られる自分を否定して相手を守ろうとしますし。だから海燕に失恋とはいわず海燕夫婦を仰賛するし、彼を失ったことを悲しむよりも自己を責めるのではありませんでしたか。恋次に対しても、すがるでなく頼るでなく信頼しあって、力及ばずとも独り立つ。一護が悩めばただ寄り添うんじゃなく奮い立たせるし誤れば軌道修正する。でも一緒に歩いていく。そういう主人公を補完する役割を与えられた準主人公だったし、そういう姿に共感・心酔するファンが多かったのではないでしょうか私はあんまし見てなかったけど(だって初期の髪型好きじゃなかったんだ・・・)。自立した個人は自立した個人に対峙したときしか発現しません。motheringは「自分なくしては生存すら危うい対象に対してのケア+それが自我を得て支配・掌握できなくなっていく過程での相克」であって、献身(自己の放棄)によってたつ自己実現です。そういうものが、ルキアについて必要でしたか?自分が変化していく、自分に依存する他者をつくり上げることに躊躇しない人格だったでしょうか?そういう変化への意思決定の過程を見せずに、それを結論として提示するほど、子供を持つということがあのキャラクターにとっての必然だったでしょうか?

 

勿論、ルキアというキャラクターに、結婚出産を決意しそれを経て成長していくポテンシャルがあるかと言われれば、そらありますよ。ただしその過程を全てかっ飛ばして「子供生んではっぴー、恩ある一護にちなんだ名前つけましたはっぴー*5」……?いややっぱ繋がらないわ。無理がありすぎだろう。

歳も一勇と同じくらいって成長速度おかしいし、もういいや拾い子かなんかだあれ。

 

そういえば、久保師匠そういう説明ブン抜かすとこありますよねー東仙の正義とかさー。。。ほんと結論を急いだようにしか、いや急ぎすぎて悪手打ったようにしか見えないくらいに全てにおいて意味が分からんのです。…結論を拒絶(騒ぎになってる「久保先生にお疲れ様メッセージを送ろう!」に訴えるとか焚書とか嫌いになるとか)はしませんけど。と言うかそんな情熱はないわけだが

 

 

本当になぁ…描かれなかったものが多すぎてですね…。物語展開の過程、キャラクターの行く末もそうだし、テーマ的な部分でも。

"勇気"っていったいどこから出てきた?とか、"許し"に一貫性がなさ過ぎるんじゃないか?とか。

東仙はじめ、過った者たちはblchでは原則的に許されません。そもそもエンターテイメント上では、過ちを犯して罰されるべきとされた人格は、何らかの「事件」を経て「改心」し何らかのペナルティを課された上で登場を続けるなり(=許される)、そういう転換なくして他者―主人公や他の継続する登場人物の成長の根拠・基準や物語の里程標になる(=許されない)のが常道です。その過程で読者へカタルシスを与えつつ。

ところが、blchでは前者と後者の仕分け基準・その後の処置の過料基準が本当によく分からないのです。

マユリは石田に倒されたあとネムによって許され、(どちらとも着かない立場から物語を展開させる舞台機構になると思いきや)その後主人公側に立ち位置を替えて活躍し続けました。藍染は、別に決定的な償いを課せられるでなく、なぜか過剰なほどの役割を担わされて最終回までよくわからん感じに生き続けました。他方、東仙は主人公側に歩み寄った瞬間に潰されましたね。檜佐木がそれで何か変わったか?狛村が生き残る根拠を示せたか?破面や騎士団は下からドンドコドンドコ殲滅させられていきましたね。それで誰かの強さのパラメータになれましたか?日番谷なんか終始弱いもの扱いじゃないですか?

…そして東仙は思い出の中、檜佐木の憧憬対象という一面的な要素になることでしか再登場できず、檜佐木の掘り下げにはなったけれども檜佐木自体あんま活躍してな…もうやめようこの話。

 

私見を正直にいいますと、BLEACHにおいてキャラクターはすべて、「許される」こととそのキャラクターの変化の間に関連はありません。つまり予定調和の自己完結。

正(生き残る)とそうでないものに予め区分され、定められた抹消という結末に向かってあがく様を描かれるだけ。変化すること=物語に受け入れられることはないからその台詞も行為も、敵味方周囲の状況の何にも影響せずにただ消費されていく。その百花繚乱の様は確かに見応えがあるんですけど、でもちょっと視点を遠くに置くと訳が分からないんですよ。「何しに出て来たんこのキャラ?」ってのが多い多い…そういうのにまぎれて大きなテーマが霞んでる気がしてならないわけです。

 

 

あと同じ根っこから出てると思うんですが、全部が全部、『あるべきものが元に戻った』ことが正しいと描かれているように見えるんですよ。キャラクター以外の「変化」を妙に拒むというか*6

帝国と石田は、分裂した新旧二つの主義の対立だったけども互いに影響することはほとんどなくて最終的に『絶対善=主人公という軸=勝利を約束された側』によって前者が潰えただけですし、数百年前の手落ちと暴虐の結果戦争を引き起こした護邸はメンバーの新陳代謝によってそのまま再建されています。帝国の残党とか、本当に一人も全然いないのかとか戦後処理は10年で終わって遺恨は一切ない、というよりもそんな事実がなかったかのよう。仮面たちは(自分たちを放逐した)古巣に迎え入れられて終了。京楽はすごく気持ち悪いんですけど書き切れないので措いときます。故スタークも剣八もマユリ様も、隣にいた幼女/娘は自分から生まれたものだから綺麗な思い出だけを残したうえで自分のなかに回帰して万々歳我が身に欠けたることのなしと思えばOhHappyみたいな。決定的なのが親子関係ですね。黒崎石田、どちらも親の不実を責めながら、その間に大して葛藤がないまま、最終的には親と和解して、父親の描いた軌跡をなぞっている*7という…。

いや最終話2回数十ページじゃ描き切れないですよそれは分かりますよ。でもテーマは15年間の話でしょう。どうしようとしてたんですか!!!??

というのは最終回から離れて作品全体の話になるのでまあいいんですけど。これまで理解できなくて「でも最終回までにはヒントが与えられるだろう」っていう期待がアレしたフラストレーションがですね。。。

 

 

 

とにかく、ありとあらゆるフェーズで整合しないんですよ。どう考えても。

・物語のなかでの整合性

 霊王の欠損?不在?っていいんかいとか、なんで人間と死神の成長速度が一緒やねんとか、他人の斬魄刀ってどういう条件で譲渡可能なのか?

・物語のテーマの不在

 バトル漫画だったの?それにしては最後の勝利と大団円がつながらない。オサレ漫画だったの?あの結論はオサレか?カッコイイポエムもなしに終幕してないか?黒崎一護の幸せ追求漫画?予め示された幸せの定義も何の代償もなしに、幸せ達成されると尻が落ち着かない(個人的に)

・今後の商業展開

 子世代モノやるとしたらパワーバランスおかしすぎる。最終回のはっぴーえんどが実写版に迎合するものだと仮定しても、既存の読者振り落としまでのメリットってあるのか?原作使用料なんてせいぜい数百万だろ?その後レンタルなんやで数%ずつは入るだろうけど『あの漫画最後しっちゃかめっちゃからしいぜ』っていう評価を甘受する→今後執筆する作品含めて、潜在顧客を振り落とす価値があるものなのか

・師匠と集英社の齟齬

 打切りというやつなのか?それとも師匠のペース配分がものすごくおかしいのか?実写映画公開までのつなぎが絶対に必要だけど、それも叶うのか?ひょっとして師匠出家でもしちゃったんじゃないか。円満とは思えない終わり方しといて「感想サイトつくった~」とか何なの?

・カウントダウンに対する疑念

 結局なんで残り回数明示しなかったんだろう。カウントダウン自体はテコ入れだと思うけど、回数隠してちゃ盛り上がり様がなかったと思うんだが。

 

 

繰り言になりますが、師匠がこんなたたたみ方というか結論付けにしたのかま・じ・で・理解も共感もできない、です。期限切られたからとりあえず持ってきたハッピーエンドの定型つう仮説もなぁ…師匠そんなにblchいらない子になっちゃったんですか?やりたいことやりきったんですか?

実写化に際しての「気になるのは髪の色だけ」も、投げやりになってるのか全肯定なのか*8

師匠と集英社はBLEACHを続けたいのか続けたくないのかどっちなんだよ…!みたいな思いでいっぱいであります。

 

 

―――と、散々書いて読み返すとblchへの不満コーナーみたいになってますね。でも違うんです。ストーリーへの疑問はめちゃくちゃ残るけど、『BLEACH』への評価は高いままです。すごく面白いと思うし、台詞や詞書のセンスはずば抜けてるし、あの絵というか見せ方には死ぬほど憧れを持ってるし。多分死ぬまで読み返すと思います。理解は出来ないけど、理解したいという思いは尽きないし、読むたびに腸揺さぶられるし。お洋服のセンスはたまにちょっと…

アレだ、ピカソのエピソードみたいな感じ。

ご婦人「貴方の絵は素敵だけど理解できないわ」

ピ「貴女は鳥の声を美しいと思いますか?ではそれを理解しようとしますか?」

 

『BLEACH』はそういうもの、として。あのカッコイイポエムやキャラクターが百花繚乱するさまをわたしは高く崇拝しております。

久保先生ありがとうございました。

 

 

 

あと、整合性とかなんとか書いてますが、吾桑は伏線を見事に読み誤ったり作者の傾向を真っ向から勘違いしたりするポンコツセンサーの持ち主なので、この読みが全外れして疑念が払拭される超展開補完続編が出るんじゃないかと、ちょっと思ってます。

師匠のセンスはいつだって読者の斜め上をいくのさ…

 

*1全部書いて気づいたけど、一護って何もなくしてないんですね。むしろ欠けていた母親に代わる織姫を得て、完璧に現世の『真っ当な幸せ』を実現している。…なんだろうこの落ち着かなさ。『成長』はそれまでの人格を一部ずつ更新していくことのはずなのに、何の代償もなく完成された自己を実現している。多分虚の力という負の遺産・日常を代償にしているんだけど、前者は世界を護ることによってプラスのスペックに既に転換されてるんじゃないか?日常っつっても、たつきちゃんやその他との間に禍根もないし、むしろ日常に非日常が侵食して取り巻く全てが護るべきもの、になってしまっている。それこそを日常の喪失って呼んだ方がいいのか?

石田くんの腕もさらっと治っちゃってるし。あれは戻らなくてもよかったかもな。利き腕(アレ?彼は左利きですよね?)の喪失を代償にして竜弦を受け入れるきっかけになってもよかったしっていうかそういう設定ならそこ描いて欲しかった、欠損のままでもそれを受け入れられる子だと思うし。物語のうえで主人公の代わりに代償を引き受けたことになってもまあバランス的にはよかったかもしれない(建前)。

(本音)  〃〃∩  _, ,_

     ⊂⌒( `Д´) < ヤダヤダ!ソンナノヤダ!

 ジタバタ   `ヽ_つ ⊂ノ    アノコヲソンナ損ナ役回リニスルナンテヤダ!

 

ていうかむしろ欠けた腕を目にするたびに一護が罪悪感と後悔と執着とその他諸々に囚われればよかったのに。

 

 

*2たつきの拳

一護からたつきへの詫びというかフォローは欲しかったです。お恨み申上げます。

 

 

*3 最近の潮流

そんなに渉猟してるわけじゃないんですけど、ていうか正直いうとラノベとか全然買ってなくて端で耳に挟んでるだけなんですけど。そして念のため断っておくと私小説めいたものを礼賛するわけじゃないですし。

どうもね、最近の若年層向けエンターテイメントはパワーバランスが―私から見て―不自然というか、主人公のスペック盛り過ぎなものが増えてるように思えてならないんですよおばちゃんは。多分『俺TUEEE系小説』って呼ばれるものだと思うんだけど。広くいえば『ONEPUNCHMAN』『モブサイコ』もそうだし。いや勿論昔からそういうのはあったんですけど"異世界に飛ばされた平凡な女子高性の私は実は神話王国の姫の生まれ変わりで―――!?"とか"美少女天才魔道士のなかには太古の竜神王の欠片があってそれが強さの秘訣"とか、眼鏡取ったら実は美人、もそうだし

ただかつてはそういうのは、読者が自己投影可能なある程度"平凡"な主人公を世界規模の戦争やらなんやらの舞台に引き摺りだす妥当性の根拠になってたと思うんです。そして、その主人公が自己実現とか幸せを掴むとか目標達成するかどうかは、そのスペックを如何に駆使するか、つまり舞台の上での駆け引きは主人公自体の資質と成長にかかっていた、それがリアリティを持つとされていたわけです。また、物語の主題だの目標が主人公の目標と一致してるとは限らなかった。《視点の違いでもこれは発現するけど。戦いと勝利を描くバトル漫画←主人公の敗北も脇役の戦闘も出てくる- と、自己実現を図る恋愛漫画とかエロ漫画》、

翻って、 『俺tueee』はスペックが目標達成のツールになってる。かつ、そのオーバースペックな主人公の目標と物語自体の目標が一致している。もしくは『モブサイ』でいえば主人公がデウスエクスマキナになって物語を転がし収束させる。あれ、それ水戸黄門じゃね?古さ新しさ関係なくね?

一個だけ読んだ”最近の~”はこれ『自立と他律の問題』なんですが、私にとってはすごくグロテスクで(以下略)。

とにかく、blchの主題が分からないんですよ。分からないなかでいきなり最終回「主人公の幸せ」が結論らしきものとして出てきた。だからじゃあこれって最近流行のBLEACH=黒崎一護ヒロックサーガだったのか?という問いを提示せざるを得ない。

 

 

*4ルキアの家族

あれ?足場っていうならルキアの場合、朽木家も家族じゃないのか?白哉との和解は散々描かれたからもういいってことだろうか。…邪推するなら、対ルキアな矢印だけがあってルキアからの矢印が明確でない相手を選んで答えを出した、もしくは一護と対称になるようにしたとも考えられるな。義理の兄を家族として前面に出すと出産という結果を導きづらいし(遺伝上は問題ないし、むしろ吾桑は子供の必要性を感じないけど)

 

 

*5ルキアのはっぴー

いや子供持ったからって幸せとは限らないですよ家族と幸せは必要十分条件じゃないですよ。でもそこ崩れたら「大団円」「円満終了」じゃなくなっちゃうじゃないですか!ここはそう読むしかないと思うんですが…あれ?

 

*6変化≒成長の拒否

なんか私なんぞよりもっと深く綿密に詳細に考察されてる先達が指摘済みみたいです。

Black and White

 

 

*7石田くんの親子関係

そこで子が親の元へ回帰することが正だとされると、SS篇で彼がマユリ様を倒した意味が一個欠けちゃうんですよ。親を殺し新しい時代をつくるという意味が。敬愛し拠り所となる祖父師匠を殺された私怨による復讐と、『非人道』的な悪行をなした邪を排除するっていう意味だけになってしまう。

いやそれはもちろん復讐も正義執行も妥当・正当なんですけど、あそこで親世代への反逆と克服という意味を無効にすると、石田のネムへの同情と、ネムがそれでもマユリ様を許すこととの対比が薄っぺらいものになってしまう。それに、マユリ様が徐々に読者側に歩み寄る、というかマユリ様こそ世界を護る勢力の要(とかすばらしいギャグ要員として賞賛されるとかとにかく株を上げて全肯定される)になる流れのなかでは、親殺し=マユリ様の物語上の生まれ変わりという必須要件が無しになる。悪逆非道を尽くした彼の時代が終わって、ネムに許された新しい時代を生き始めたことにしないと、「最初『倒すべき邪悪』だったくせに何故途中から『こっち側』に来てるのか?」という問いに答えられなくなってしまう。最初からマユリ様は正しかったことになって、物語のなかでの正邪がねじれる。

あと「少年誌」で親と同質化することが賞賛されるという感覚が私にはわからん。医者になること自体を否定してるわけではなく、何の過程も経ずに、というところに引っかかってるのです。。。

 

*8実写化への賛否

投げやりならハリウッド(噂)でも、その他のこれまでの実写化要請のタイミングでもよかっただろうになぁ。完結したから投げやりになったのだろうか。でもそれだと「出来る限り協力するよ」的なコメントが分からない…師匠もしかして興味が漫画から実写の演出とかそっちのほうに移ったの?そっちで作品つくっていきたくなったの?まさかの映画監督代行TITE爆誕?

それにしたって実写化を全肯定・信頼できる思考回路はまったく理解できんけど。

 

個人的には、ショボい予算と原作への無理解とオリエンタリズムの投影に満ち満ちたM級(吾桑はむしろZ級映画なら好きです)映画になるほうが、背中のむずがゆくなるようなコスプレ学芸会よりマシなんですけど・・・

まぁどうでもいいんですけどね、どうせ見ないから。

 


なんてことを大真面目に考えると同時に、「まぁなんでもええやん完結したんだし所詮娯楽だし」って( ´_ゝ`)フーンしてる吾桑もいます。

 

そういえば一ルキやってた人は今どんなもんだろと思ってtwitter探してみたら、鍵つきになってました。大変だなぁ。そうなるだろうなぁ、いや一織恋ルキの人たちも決して幸せじゃないと思う。

似た感じで、花見クリアファイルにボロ様がいなかったとき、ボロス狂の人がえらい憤激してたの見たんですけど、なんか大変だな。皆マイナーで耐性つけようぜ!