つらつら

 

なんでこんなにバイバルスばっかり描いてんのかって、リアルがちょっとハードだったからですよ。わたしのかわいこちゃんに癒されたい!!!

 

 

続きでサイボーグとか何とかに関するアレコレ。現実の問題を引いてるので「実際に苦しんでる人がいるのにネタにして萌え語りするなんて!!」ってひとは進まないでください

ジェノスすっごい好きですけど、でも私がジェノスに感じてるのは"師弟萌え"とか"忠犬かわいい"とかであって"サイボーグ萌"ではないのかもしれないなーって思ってつらつらと。

 

あのこ、外観はもちろん機械機械してるんですけど、芯には持続的な少年/青年っていうしっかりした自己があるんだなーって。ビショップやアッシュやジスカルドや、トレス君みたいに(トレス君は正直微妙だけど)、徹底した無私・他者/選択不可避な目的への従属をつきつめた結果としての自己の発見とか、ツールの伸張の結果によってもたらされた個性じゃないですよね。サイボーグになったときから目的はあって、その目的を達するためにいろんなことを選択してる。

 

少年漫画の需要の観点からありえないしあのこのキャラクターとしての同一性のためにはあっちゃいけないんだけども、だけど究極的には"狂サイボーグは誰か別の人間(先生とか)が倒して、ジェノス自身は目的をなくしてそれでも変質しつつ生き続けていく"っていう、そういう人間としての生の物語も読んでみたいっちゃみたいんですよね。原作じゃなくて全然構わんので。復讐を果たせなくても、あの子は泣いたり笑ったり出来るのかもしれないなーってそういう安心感はありますね。サイタマっていう一個の基点というか触媒というか、人生におけるひとつの転換装置は絶対に必要だったとしても。そういう点で、自分の中では砕蜂にちかいカテゴリにいる。

 

対して(強引に)、隊長就任以降の東仙だと、もう目的なくして其処に在ることは無いのかも知れないと思ったりします。日々の喜怒哀楽とか檜佐木ほかを教育したりするのってそれまでに身についた、あるべき反応にすぎなくて、全ては復讐のためにあるんじゃないかって。藍染に対して異様にナイーブな反応を示すのも、抑止スイッチとして残してあるだけの感覚と反応なんじゃないかなって。なんていうか脳を切り落としたカエルの足を動かすために、電流を感知するいくつかの神経を残しとくみたいな。ただ、それだけじゃないことを(過去には決してそうでなかったことを、あるいは今それが揺らぐことを)久保てんてーが絶妙な筆致で描くからたまらんのですけどね!!!なんなのあの涙とか箍の外れたような酷薄さとか。逆に無軌道すぎるわ!


同様に、ビショップほかはみんな、基本的には与えられた論理の中に生きてる。誰かの目的達成のためのツールにすぎなくて、ただ状況が流動的でかつ複数のオーダーに対して優先順位をつけなきゃいけない場合が多いから、高度な判断能力を与えられてる。純粋な彼らはそれだけで美しいし、それが崩れる瞬間もまた然り。(「人間しては、やるね」とか三原則に反してヴァジリアを傷つけてしまうとことか)

 

そういう不自由な純粋さは、ジェノスには感じないなって思いました。

ジェノスはサイタマを崇拝してても尊敬してても、サイタマに対して疑問を持つし目的を彼に託さない。(てゆーか絶対たまに小馬鹿にしてるだろ)

 

ってこんだけ力説しといてなんですが、私含めたいていの人があの子に感じてるのはメカバレ・ロボリョナの愉しさだと思うけどな!精神関係ないじゃん。

 

ともかく、サイボーグだとかその他機械に感じる憧れ、このましいと思う感情は多分にその純粋さに拠って立つと思うわけですね。その特化した能力とともに。それは、自己同一性に悩む人間にはない、ツールとしての一義性。

これは私個人のものじゃなく、それなりに普遍的な感情だと思う。中二病作品に(だけではなく今やふつーカテゴリーの作品にまで蔓延する)望ましい自己の状態を固定するために死ぬ、殺してもらう描写っていうのは、自己ブランディングのもっとも簡易で明確なかたちで、そういうものを嗜好するのと同一線上にある一種の流行だと思うんだけども。

もちろん、可愛い、という言葉に端的に表れている"理解するのに十分なほどにシンプルであるがゆえに掌握・支配の欲求に適う"存在だというのもひとつ要素としてある。(これについてはそのうちしっかり書く)

 

 

で、自己同一性を揺るがすひとつの大きなイベントのひとつに、妊娠・出産というものがあるわけだけれども。それって従来のサイボーグ観からは凄く遠いものだったんですよね。自己増殖という機能を必須としていなかったがために。(ただ、人に身近にイメージされるロボット、がドラえもんみたいなメカニカルな物体からSiriみたいなソフトにその大勢を譲ったからには、これからは変わっていくんじゃないかな。その感覚って。自己のプログラムを自分で書き換えてかつデータ交換してバックアップというかコピーしていくロボット観てきっと広まってくよね。さらに余談だけど、『ブレードランナー』で主人公がレイチェルを救おうとしたのは、あの破壊されるであろう1個体に執着して、かつそれが無二の1個体だったからだけど。でもバックアップと完全な再現が容易になれば、目の前の1個体を択ぶ、という行為に意味はなくなるよね。もっといえばバックアップやコピーによって、自己の主観においてすべてのことが代替可能になるという、他者のいない閉じた世界の完成にあたる訳だけれども。あ、これアシモフ描くところのソラリアか。ともかく、掌握不可能なもの=他者を排除して、それを愛でる[支配する]というのは、文学上の恋愛についての最大の問い"全人類を尽く試したわけではないのに、何故目の前にいるその一人を最上の一人、一番好きだといえるのか"へのひとつの答えになるかな。すでにある"愛する"という自己の選択の肯定の継続に過ぎない、という答えの補強にしかならんけども)

 

 

で、飛躍して。平行して考えてた"レイプ"という言葉の二義性についてです。

 

**リアルな問題を引き合いに出してるんで胸糞かもしれないんですけど。

 

性犯罪から性別規定を撤廃、強姦を身体侵襲行為と規定してください

みたいな 問題を考えたときに、"レイプ"というものが生殖を前提にした行為なのか、ジェンダーというアイデンティティにおける割と根幹的な要素に対する不当行為なのか、そもそも観点が違うわけですよね。生殖に直結する可能性があるから身体的損傷は小さくても秩序への毀損行為としてはそれなりに慎重に扱うべきという現行規定と、理想的には二者間の合意の結果発生する親密な行為を一方の意思のみによって遂行した(あるいはこれに追加して結果他方が苦痛を得た)ことを"すべての人類が平等に故なき苦痛を負わずにすむ社会"への毀損とする後者と。

ついでにいうと性犯罪の難しさって何を被害と規定するかに拠るから確定しない点が往々にしてあるんですよね。あと合意の有無。古くは"ここじゃ背中が痛いからあっちでヤろう"に同意したら和姦成立とか、"~な体位は夫婦間の慣例において通常の行為であるから"和姦で強姦罪否成立とか。

 被害に話を戻すと、行為だけに目を向けると既存の傷害罪の範囲でカヴァーできるはずなんだけども、実害を被ってない"被害者"への救済(社会に対する背信、という規定の裏返しであるところの肯定)が零れ落ちる。"○○なセクシュアリティを保持したい≒△△な性的行為を遂行したくない"という意思に反して遂行された性行為の意味というか不当さが抜け落ちてしまう。

(ただ、現行規定を変えることは現在苦痛を受けているLGBTの人々らの救済措置にはなるかもしれないけど、この規定はあまりに恣意的な適用が可能、つまり結果として気に入らなかった性行為について遡及的に訴え得る(悪用のしやすさ)、という点と、そもそも自己のセクシュアリティについて相当意識的に言及しないと立件が難しいんじゃないのか、っていう点からわりと引っかかってるわけですが)

 

で、こっから強引にフィクションに話を持ってくると、ガンメタルハウンドの"AIレイプ"ですよ。

侵された側にしてみれば、自己の根幹を成す相当に重要でありセンシティブな事柄について合意なく侵犯行為を行ったことが問題であって、その事柄について無上の神聖さを感じているがために、それを侮辱(触れるだけでも)することは自己(および過去と将来の自己)への破壊行為だと。それは怒りと対象の排除によって再度穢れを払われなければならない。

これをして"レイプ"と呼ぶのは、上述のアイデンティティに対する不当行為として非常に妥当だと思うわけですね。っていうか、腐ったおねえさまがたが上記のガンメタルハウンドとかウイルス侵入だの侵略行為だのをそうよんでました!すげえ!

 

これに対してAlienシリーズ(本来的にはオバノンとRスコットとギーガーのそれなんだけど)全編を貫く"レイプ"の概念は、生殖と継続性にまつわる意思と暴力についての言葉だと思う。Alienで、ギーガーの手になるかなり"エロティック"な造形を以ってセックスをほのめかしてはいるし、それは意思に反する生殖というかたちで明確になる。(それでもやっぱり、あれは継続と繁栄を到達目標においた有機群体「あの単純な均整美」と組織vsただ生まれ落ちけれど生き続ける為にあがく人間のって構図もテーマとして上げときたいけど) Aliensでは明確に母親同士の対決(カソリック旧態的なそれと近代的なそれ)で3では女性性の剥奪と必然としての死(自己の自己実現の結果を固着させる行為)なわけで、4はシガーニー無双でおいとくしブロムガンプの新作はまだ未公開だけど、Prometheusは自らが産み落とすものへの恐怖・妊娠と出産という自分が変化する最も原初的で意のままにならない恐怖、つまり節理という暴力性を描いた作品だと思うわけでありましてですね。

いや何の話だよってレイプの言葉の底にある生殖についてってだけなんですけれども。

 

つまり、もともと変化の乏しいはずのものに暴力的に変化を加えてその定義に揺らぎを与えるって面白いなーって。(無理やり)