銀の檻の墨の花

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行ってきました感想。

 

要約すると、「行ったほうがいいよまじで!!!!」

11/3~11/8(土)

美しさもおぞましさも、墨だけで此処まで具現するのかと。

モチーフも素材としての線も意味はなく、ひたすらに密で深い精緻な世界。

 

 


 

 

感想を書くといっておいてなんですが、ことばで再現することのできない、うつくしい存在がありました、というのがいちばんしっくり来る感想です。

当たり前だけども、こんな字読むより見に行ったが絶対いい。

 

絶対に手の届き得ない世界が眼前にある畏れと言えばいいのか驚嘆と言えばいいのか。あの感動を表現するのには、たぶん畏怖ということばが相応しい。

 

少女がうつくしい、花々が可憐だ、超絶技巧に息を呑む、そういうものはすべて要素でしかない。

少女がただうつくしいのではなく、描かれた生身ではない少女という造形とその少女と地続きの植物や描線や闇が、現前に確かにうつくしくあるのです。描写されたものではなく、描写そのものに圧倒的な魅力があるのです。

 

それが何に起因するものかはわかりません。

少なくとも、描かれたモチーフ"が"つくりだす物語や"描線の躍動感"や"画面の粗密の絶妙なバランス"には魅力を感じても、あの画たちを前にするとそれ以上の感動がありました。うつくしい、だけに終わらない、所謂理想から外れる畸なる肉体や生硬い脈動の絶えた肌や死体めいて鈍重な金魚が描かれています。それらは目を背けたくなるほどにおぞましく、けれど目を捕らえて離さないのです。

 

例えば技巧をもった著述家なら、あの画を語って誰かの眼裏にそれを再現せしめることはできなくとも、それと同じだけの感動を与えることはできるかもしれません。但しそれは決して質として同じものではない。少女も花鳥風月も、それらモチーフは入り口でしかなく目を奪われた瞬間、けざやかな黒と紙の白の重畳に引き込まれるでしょう。それは目の悦び以外ではありえない、ことばのような単線系の論理の支配する世界とはまったく違った快楽です。

 

シーレの憂鬱―私はあれに偏執性は勿論ですが性を発露しあぐねてやりきれない憂鬱さを感じるので―、ビアズリーの眩惑、笑い絵の耽溺、マチスの偏執、そういうものに費やされた言葉を、全て享けうる画。

 

技巧といえば、ただ画という結果をこれだけの存在感をもってもたらすことができるのを、至芸と言うのかもしれないと思いました。

 

 

あと、ちょっと技術的(?)なことを。

今日原画を見るまで、「何で挿絵とかに使わないんだろう」「画集とか出ないんかなー」とか思ってました。むしろなって欲しい、画集欲しいと思ってました。

撤回します。

 

原画見たらそんな気無くなる。

いや勿論、あの画をいつでも見れる状態になったらそれは嬉しいです。けれども、あの画を再現するのは容易なことではないでしょう。リソとか複製原画ならまだ。でも縮小をかけるとなると途端に厳しくなると思います。(今までもA4サイズへの縮小とかは見てると思うんですが、一旦原画見てしまうと、という話) 髪の毛先の本当に繊細な擦れ線とか信じられないくらいに緻密な点描とか、全部潰れてしまうとなると惜しいを通り越して発狂しそうです。ていうかポストカード結構つぶれてる…あと紙の問題もあるんでしょうね。光沢のある上質紙だと、やわらかい紙と光の反射がまったく違うし、黒は潰れも相まって辺にトンガってみえる。深さが無い感じ。解像度次第でいくらでも拡大可能な分だけwebのがまだしも、と一瞬考えましたけど、でもディスプレイの比率と全体図を収める紙の大きさって全然違うしなぁ…しかも、ディスプレイと目が適正距離にないとそれはそれで汚くなるしなぁ…と。

 

いや、どこで線を引くかって話だから鑑賞者が考えることでもないわけですが。

 

あと紙質も墨も、実は結構多彩で面白かったのでそこが画一化されるのは割りと残念だったり。でもいつでも見れるってのはいいなぁ…とお門違いな無限ループ。

 

 

 

 ともかく、上記の画家とか皆川博子とか

山本タカトとかモノクロとか細密描写とかそういうものにちょっとでも惹かれる方は、絶対行っておいたほうがいいです。原画は本当に本当に、複製以上に複合的な作品性が確かにありますから!

 

 

 


  

それはそうと、

地下の画廊というのはなぜこんなに入り口がわかりにくいのか。せめて看板出してお願い!