なきむしけむし 手が生え足生え蝶になる

普段泣かない子が泣くとびびるよね
普段泣かない子が泣くとびびるよね

 

 

ミニスカな袴とかかけませんすみません

* ななお別人だね! むしろこれはただの幼児として眺めて頂ければ! 

 

 

「あんま泣きぃな。目ン玉溶けるで」

声をかけると、小さな肩を精一杯立て直して言う。

「は…いっ、ごめんな…さぃ」

ただ、一度堰を切ったものはひとしきり流れだすまでは止まらないらしい。なまじ普段滅多に涙など見せない子だから、自分が幼児のように(このこだって十分に幼児なのだが)泣いていることに驚き、混乱しているのだろう。自分の胸のなかで暴れるものの対処法も分からないに違いない。

(だからいつも我慢せんと泣け言うに)

七緒はよう泣かんとええこやな、という自分の常々の言動は、とりあえず棚に上げておく。

目下の問題は幼児の下の少女だ。

 

(びーびーうっさいのよ)

年長者の手前、しおらしく七緒を背負ってはいるが、本音の透けて見えるようなふてくされ方だ。

少女がこの子供を嫌いなのは知っている。弱い者が庇護されて弱いままでいることを許容するような、そんな寛容さは持っていないはずだ。

けれど、年長者としては思うところがあるのだ。

少女が必死で這い上がろうとしている場所は、必ずしもすがる手を捥ぎ離して進まねばならない場所ではないこととか、他者に差し伸べる手があることはすなわち余裕の表れではないこととか。なにより、このこどもが松本乱菊という靭い少女に、憧れを抱いていることとか。

 

(気づいてやりぃ、松本)

―――この子が泣いてるのは、膝をすりむいたからでも眼鏡を落としたからでもなく、アンタに迷惑かけてるいう不甲斐なさが悔しいからなんよ。


 

** リアルな性指向とか全く関係ない話ですよ

 

 

唐突になんですが、最近"情念"がキーワードになってまして。

先日のイヅルとか。砕蜂とか。(「天城越え」の"くらくら燃える火"がなんとなくこう、雰囲気でですね)

(ついでに今 「天城超え」ってどんなんだっけとおもったら 「津軽海峡冬景色」と混ざってました。何たる)

 

そもそも百合はどっちも女くさい感じなのが好きです。

乱七はあんまりそうならない。それは一見サバサバ系(ほんとうに執着してしまう部分はひとつだけなので、それ以外の点に関しては適正距離をとることができる、周囲の野郎どもがあんな感じなのでそういう役割を引き受けている的な)な乱菊さんに負うところが大きいわけですが。あと七緒さんは理性派だしね!(いかにも付け足しだってそんな緻密な描写が)

だから友情スレスレとか、傷の舐めあいみたいのとか、乗り越えるべき躓きとかそんな風なのが好きです。

 

まあ神作品に出会えば簡単に変節する日和見主義者ですけどね私は!

キャラクタや関係性なんて作品ありきで魅力的にも陳腐にもなり得るものでしょう。

 

 

夜砕はそういう意味でちょう面倒くさいと思います!(歓喜)

砕蜂は本当夜一様に固執しすぎな。自身の卑小さを忘れるほどに対象を祀り上げて、けれども自分の誓いと夜一の意思との間には元来何の関連も或いは拘束力も無いことを理解していなかったし、夜一の意思もその行動も受容できなかった。なおかつその状態を100年維持することで自己の整合性を得たと。

 100年て!(要blch補正)

 

で、そういう頑なさは東仙も檜佐木もあって。

だけども発露の仕方が全然違って、だから絡めたいんですよこのノースリーバーズ。

あれ百合の話じゃなかったっけ・・・つか百合でいいやこいつら。

 

 

 

逆に卯ノ花隊長は非常に柔軟な人間でかつ地に下りればその地に根を張るので、基本トラブらなさそうですよね。いや「あなたの子が欲しい」的な銜え込み思想(むかしの映画の毒婦みたいな感じ)をやってくださっても非常に面白いんですが、それだけの対象が思い当たらない。基本、分け与える慈愛の人だと思うので。与えられたものを受容するし、自己を保存することに、関心は無いまでもごく自然にできる。自己の同一性を他者に依存しない。

 

卯勇なんか面白そうなんですがねー。

確かに想いかけられれば応えるし、愛情は注ぐんですけど、相手の(自分への)依存とか、同性ゆえの甘えや思い込み(理解しようという努力の放棄)があれば容赦なく軌道修正させそうだなーと。鉄拳制裁で。

こうなってまうんですよ自分で考えると。

 

 

 

 

 

 

ところでわんぱんはそろそろリメイク版のほうでボロス編が始まりそうですが、ボロスはやっぱり単眼なんでしょうかね!天下のざんぷで単眼来るかな(0゜・∀・) 来たれ市民権。