毒を食らって皿投げて

たぶん、取り込んだと思ってた毒は身のうちから染み出したものなんだろうよ。

 

 

 

思うところあって、年単位ぶりに図南トリオを書こうとしたら、まぁ利広の性格の悪いこと悪いこと。しかもムダにブルータル。当然ボツにしたわけですが、これblchだったらアリだよなと思ってしまった自分がいます。

 

えぇ、統括官とか軍団長閣下とかその辺。平和主義者の皮かぶったロクデナシも大好きさ。

 

だからといって、別にblchに品のない暴力性があってそれに影響されたなんぞというつもりは毛頭ないのですが。

ただ、小野不.由美氏が隣人の異常な悪意を描く(箍の外れた凶暴性とか几帳面さと地続きの偏執性とか)のに対して、久保氏は強さの極限値として理解を超えたものを悪意と呼ぶとするところがある。と思うのですよ。

 

[あ、今ウェーバーの言うところの聖性=人間らしさからの離反、の理論を思い出した。これの裏返しだよね。厭世観に対置される「善き場所」と、現状肯定に対置される「私が天に立つ」の天。だからこそ黒崎は強さと共存しようとするし排斥しようとするし克服していく]

 

[あと、書けるからこそ『落照の獄』にはものごっつい不満がある。日常に紛れ込んだ/日常が孕んでいる「リアルな(実在の出来事の要旨を反映させた)」な異常性とその不可解さとなおかつそれをとりまく葛藤と熱狂を書けるのに、あっさりそれを「天理」で裁断してしまってそれ以上読者が踏込むのを拒否したような。何でそれ十二国でやったよ?っていう作品。いや、十二国に手触りのある閉塞感を持ち込みたかったとか、とりあえず続き書いとかな本編出版できなくなるとかいう事情はおいといて。

どっかのファンの書いてた「現代の問題に四つに組んで立ち向かった大作」とかいう書評にPCひっくり返したくなったことを憶えております (目ん玉見開いてもっかい読み直せゴルァ的な)]

 

閑話休題

で、blchはキャラクタ造形に、いくつかの個性を特化してキャラクター間に差異を創出するとでもういうのか、特殊性を受け入れる土壌がある。異常な行動を描いても、それを許容する素地が、読み手のなかにできてると思う。突飛なものを書いても、そこに人がましい行動原理を書き足していくことで、読み手に感情移入させうるだけの緩さ(といって悪ければ漫画脳という下地)がある。

 

で、そのやり方に無意識に慣れてしまったので、文庫版4巻あたりで書かれるべくしてしかし直接描写のなかったハイテンション残虐非道辰巳みたいな利広が登場してしまったという言い訳です。