取り急ぎ

呟きたいことをちまちま。

落書きは腐るほどしてるけど、いっこテーマが完結するまではup待ち中。

『第9地区』

これはいい…!

もともと"すぐ隣にある異郷"には目がない私ですが、"排斥すべき"他者を内包しつつ生きるヨハネスブルクを描き切ったという点でこの映画はまさにドツボ!! 相克と成長、というとあまりに陳腐ですが、ヨハネスブルクが単なる背景ではなく、矛盾を抱え込んでなおまた継続していく有機体として、主人公と表裏一体に描かれてる。

 

ストーリーテリングとしての完成度の高さに、なおかつSF的な薀蓄も十分に(私のレベルでは)掘り下げられていて、場面場面で惹かれるんですわ。

 

(評論家的なことは言いたくないんですが↓そう聞こえるかも)

鑑賞者を惹きつけるといえば、視点のもっていき方がすごく上手いんだと思う。視聴するうえでの安定感と、ストーリーやエピソード、表現される感情への共感という2点。

 

前者は、「ドラマ的な」普通の映画にある鮮明で揺れのない映像と、ドキュメンタリ風のブレ画像や監視カメラのモノクロ画像の混成が、臨場感だけではなく鑑賞者に他者としてのたち位置を示す。

私たちは通常、滑らかに映し出される異形に恐怖は感じても、ツッコミは入れない。なぜなら、「これはクリーチャーがでてくるのが必然であるフィクションだ」というロジックに乗ることでその映画(というかフィクション全般)を愉しむのが、鑑賞者に与えられた鑑賞の方法だから。そのためには、自己がまったく働きかけを行わず、かつ全体を理解+共感しながら進行する、定点が必要(何かでこれ神の視座とか言われてた気がする)。だから映像(与えられる情報)は、ひとつのロジックにそっているし、勿論映像それ自体には統一感をもたせる(逆に複数の色調等を平行させることで2つの視点を表現する ギレルモ・デル・トロみたいなのもある)。それはカメラという主人公に対比する他者を意識させないのが普通だし、それは当然人間の意識のように滑らかで焦点も定まっている。

それを逆転させて、いくつもの映像を混在させたのがこの映画。登場人物とのあいだに、確固たる共通認識は育まれないし、対象物(主人公であれクリーチャーであれ街自体であれ)と対峙する自己を意識せずにはいられない。

 

 (余談 ; 「画面を揺らす」という撮影手法でよく出てくるのが『クローバーフィールド』だけども、残念ながら未視聴。臨場感云々と言われてますな。酔うらしいし)

 

後者に関して、監督自身が述べていことだけども、主人公に"嫌悪感を感じさせる"ストーリーをあえて挟む。これによって主人公と一体化する、という"フィクションの愉しみ方"のひとつは破綻する。

でも面白いのは、「一体化」が破綻することで主人公の視点を失うけれども、主人公の思考をトレースしない、別の他者の視点を手に入れること。主人公と乖離するというのは、同時に鑑賞者の脳裏に当然あってしかるべき予定調和へのロジックから離れることな訳ですが、それはつまり「予想のつかない事態に巻き込まれる」 という「別の人生を生きる」という、フィクションの別の愉しみ方を極めることになる訳ですわ。多分。

 

ともかくも、千葉、東京っぽいロスに続くSF都市はヨハネスブルクに決定ですな。魅力的過ぎる(住むというのとはまったく別の次元で)。

 

 

 

 

 

 

『300』

………ぱんつ…………。

無茶しやがって、というのが正直なところですが、意外に面白かった。布のはためき方にしろ殺陣にしろ、絵を描く上では見所が沢山。

そして音楽がTyler Batesだった! 『Doomsday』見て大好きになったのですよ。低音の疾走感とか異種楽器(オケ+アフリカのどこかの民族楽器とか)の組み方がすごく面白い。その代わり雰囲気場面の和音とか旋律はあんまり?で、ダンゴになってもある程度許される現代モノのほうが得意な気がする(ガットギターとか!!)。てことはオケと指揮者次第で化けるのか?ちょっと聴いてみたいけど、映画音楽専門みたいだからないんだろうな。

というか、異種音の組み合わせにしても、本来音量と反響という点で組み合わせ得ないものをスタジオでいじってるから、西洋音楽として成立しえたんだろうし。

(Nevember stepはどうなんだ、といわれたら、とりあえずギターはピアノとおんなじじゃないか、と返します)

 

( 余談;

結局、生として成立するのは、ホールという反響装置を前提にして、西洋音階を紡ぐものだけなんじゃないだろうか。そもそも"同時に聞こえる"という最低条件をクリアしない可能性があるし、そもそも異種楽器というのはその愉しみ方からして違う。片方に片方を従わせても、bizzareなものの次元を超えないんじゃなかろうか。極論だけれど、オケはそれひとつでホールという箱のなかに世界を構築するものであることに対して(少なくともそういう方向に進化してきたものが今のひとつのかたち)、雅楽なんぞは多分客席(という考え方自体がそもそもない)が和することが愉しみ方としてあると思う(勿論、西洋音楽にも奏者として、という愉しみ方があるし、それは種別に固有のものではない)。畢竟人間は美しさというものを既にもっているリテラシに照らしてしか認識することが出来ないんじゃないか、というのが持論な訳ですが、そんなことはどうでもいい。

 

 

ともかくも、「無茶しやがって」と笑いながら見れるのがこの映画のいいところ。その時代まだ鐙がないんじゃないかとか、輜重隊はどこ!?とか。突っ込みどころの多い映画は楽しい。―――"突っ込みどころ=欠陥"になるのは鑑賞者を退屈させる映画だけで、行間を読むのも鑑賞の楽しみのひとつだと思う。少なくとも理屈を曲げて趣味を貫く勢い(と見合う表現力)が大好き。それこそ「時代考証とか人間の身体能力とかのリアリティを無視する」というのがメタなロジックとして走る映画ですわ。素敵。 

 

 

 

『Biohazard Ⅳ afterlife』

P.Andersonって久保*人氏に似てるんじゃないかと思い始めた。

 ・ それ伏線じゃなくてこじ付けだよ、っていう、こう、えげつないくらいのどんでん返し

  しかもロジックに無理があるんじゃなくて、無数の可能性のなかからきわめて確立の低いとこを狙い撃ちするとことか・・・

 ・ 困ったときにとりあえず「そんなことははじめから」のっぴきならない事態をを突然ひっくり返す、ストーリーの根幹を揺るがすような真実暴露

 ・ 不憫数値のデフレ

  "東仙隊長過去に辛いことがあったから今に至るんだね"という読者の共感を突き崩す、"更に辛い目にあった"キャラ設定の乱立救済を目の前にして斃れるキャラクタが鑑賞者の胸を抉るのは1人/hまでだと思うの

 ・ 人物とかVFXに対してのふぇちいまでのつくりこみ

  まーそーゆー映画だしな。夫婦云々は抜きにしても、ねぇ。

 ・ という努力が、リアリティでなく自分の構築したい世界観を志向していること

 

多分好きです。ボロクソ言ってても、「Underworld」みたいに脚本から何からクッソ下手なわけじゃないし。

1が本当に好きだったんだ。ホラーとしてちゃんと成立してたし、サントラ((というかイメージアルバム)RAMMSTEINが入ってたこともあって)本当に良かった。 『AVP』もそうだけど、既存のものの面白い要素を抽出して飾り立てるのは上手いと思う。ただそこで抽出する対象が私の好みとは合わないんだろうな。

 

というかサントラがRAMMの曲のどれかに似てるんだけど思い出せないこのもどかしさ・・・・・・・・・!!